丿貫 (Hechikan)
丿貫(へちかん、べちかん、生没年不詳)は、戦国時代 (日本)後期から安土桃山時代にかけての伝説的な茶人。
名の表記は、丿恒、丿観、別貫などとも。
なお「丿部(ヘツ、ヘチ)」は、カタカナの「ノ」ではなく、漢字である。
京都上京区の商家坂本屋の出身とも、美濃国の出とも言われる。
一説に拠れば医師曲直瀬道三の姪婿だといい、武野紹鴎の門で茶を修めたという。
山科の地に庵を構えて寓居し、数々の奇行をもって知られた。
久須見疎安の『茶話指月集』(1640年)によれば、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が主催して行われた北野大茶湯の野点において、丿貫は直径一間半(約2.7メートル)の大きな朱塗りの大傘を立てて茶席を設け、人目を引いた。
秀吉も大いに驚き喜び、以後丿貫は諸役免除の特権を賜ったという。
江戸時代中期に成立した藪内竹心の『源流茶話』によれば「丿貫は、侘びすきにて、しいて茶法にもかかはらず、器軸をも持たず、一向自適を趣とす」「異風なれ共、いさぎよき侘数奇なれば、時の茶人、交りをゆるし侍りしと也」と書かれており、当時盛行していた高額な茶器などは用いず、独自の茶道を追求していたようである。
同じく久須見疎安の『茶話指月集』には、丿貫が手取釜1つで雑炊も煮、茶の湯も沸かしたなど、清貧ぶりを伝えている。
いっぽうで、当時の茶人・数寄者との交流もあり、特に千利休とは親交していたという。
ただし江戸後期の柳沢淇園『雲萍雑誌』には、利休と茶道を争い、世間に媚びることの多い友・利休の茶風を嘆いたとも書かれている。
巷間では、千利休を自庵へ招待した際、庵の前に落とし穴を設けて利休を陥れ、沐浴させて新しい着物を供したなどとの逸話も伝えられているが、伝説の域を出ない。
晩年は薩摩国へ下ったという。
薩南学派の南浦文之の詩文に丿貫との交流を伺わせる詩句がある。
同地で没したと思われ、『三国名勝図会』鹿児島郡西田村に「丿恒石」なる塚が記されている。
表千家の良休宗左(随流斎)の記述によれば、露地で履く雪駄は、元は丿貫の意匠から出たものだという。