久我敏通 (KOGA Toshimichi)
久我 敏通(こが としみち、享保20年1月27日 (旧暦)(1735年2月19日) - 宝暦6年2月25日 (旧暦)(1756年3月25日))は、江戸時代中期の公卿。
主に桜町天皇(114代)・桃園天皇(115代)の二帝にわたり、仕え、官位は正三位権大納言(薨去後正二位追贈)。
父は右大臣久我通兄。
養子に久我信通。
元文2年(1737年)に叙爵し、清華家当主として速いスピードで昇進した。
侍従・左近衛少将・左近衛中将などを経て、寛延元年(1748年)に従三位となり、公卿に列する。
宝暦3年(1753年)に権大納言に就任。
しかし彼は父とともに竹内式部の門下生であったため、宝暦6年(1756年)に権大納言辞職に追いやられる。
またこの年に薨去した。
享年22。
徳川幕府崩壊後の明治24年(1891年)、晴れて名誉回復し、正二位を追贈された。