九条尚実 (KUJO Naozane)

九条 尚実(くじょう なおざね、享保2年6月21日 (旧暦)(1717年7月29日)- 天明7年9月22日 (旧暦)(1787年11月1日))は、江戸時代中期の公家である。
関白九条輔実の三男。
母は後西天皇の第十皇女益子内親王。
同母兄に九条師孝、九条幸教が、同母姉に尾張藩主徳川吉通の正室となった九条輔姫がいる。
子に九条道前、松殿忠孝がいる。

はじめ、尭厳と名乗り、門跡である随心院に入り、権僧正に任じられる。
兄幸教の子九条稙基が死亡したため、寛保3年(1743年)5月9日に還俗し、九条家を継ぐ。
延享元年(1744年)4月13日従三位に叙せられる。
宝暦事件では関白一条道香、近衛内前、鷹司輔平ら摂関家公卿と協力し、桃園天皇側近の尊皇論者である清華家以下の公家を失脚させ、摂関家の優位性を保つことに成功した。
宝暦9年(1759年)から安永7年(1778年)にかけて左大臣を務め、同年から安永8年(1779年)まで後桃園天皇の下関白を務める。

同年後桃園天皇が22歳の若さで急死する。
生まれたばかりの皇女欣子内親王を新帝の后とする事で公卿の意見は一致したが、後桜町天皇と長老格の前関白・近衛内前は、伏見宮邦頼親王の子で4歳の伏見宮貞敬親王を推した。
これに対し、尚実は聖護院門跡に決まっていた閑院宮典仁親王の六男で9歳の光格天皇を推した。
当時あった四宮家の中でもっとも格式が高いのは伏見宮家であったが、もっとも皇統に遠かった。
もっとも皇統に近いのが閑院宮家であった。
10日余りの論争の末、閑院宮家の師仁王が新帝として擁立されることが決まった。
諱を兼仁と改め、即位した。
その後、尚実は光格天皇の下、摂政、関白、太政大臣を務め、准三后に叙せられた。

[English Translation]