二条斉敬 (NIJO Nariyuki)
二条 斉敬(にじょう なりゆき、文化 (元号)13年9月12日 (旧暦)(1816年11月1日) - 明治11年(1878年)12月5日)は、幕末から明治時代にかけての公卿。
藤原北家摂家の二条家当主。
日本史上最後の関白。
人臣としては最後の摂政。
生涯
文化13年(1816年)父:左大臣二条斉信、母:徳川従子(水戸藩主徳川治紀の娘で徳川斉昭の姉)の二男として生まれる。
文政7年(1824年)5月元服、二条家の慣例に従って征夷大将軍徳川家斉の偏諱を受け斉敬を名とし、9歳にして従五位下に叙せらる。
文政8年(1825年)従三位に昇る。
以後順調に昇進し、天保2年(1831年)権大納言。
黒船来航以来の政局にあたっては水戸斉昭と同調し、日米修好通商条約締結の勅許も不可を唱えた。
安政5年(1858年)大老となった井伊直弼の主導により、紀州藩主徳川慶福(のち家茂)が14代将軍に決定すると、将軍宣下の使者として江戸へ下向。
井伊大老との面会を望むが断られる。
同年より始まった安政の大獄では処罰の対象となり、翌年2月に10日間の慎(つつしみ)を命じられた。
しかし、翌月には内大臣に昇進。
文久2年にはさらに右大臣に進んだ。
京都の地で尊王攘夷運動が高まりを見せると、久邇宮朝彦親王(のちの朝彦親王)などとともに、公武合体(親幕)派と目される。
文久2年(1862年)12月に国事御用掛に任ぜられ、攘夷派の過激公卿三条実美や姉小路公知ら、およびそれを支援する長州藩と対立。
文久3年(1863年)前関白の近衛忠煕や朝彦親王とともに、薩摩藩および京都守護職の会津藩を引き入れ、八月十八日の政変を決行し、長州藩や過激派公卿の追放(七卿落ち)に成功した。
もとより公武合体を強く欲していた孝明天皇の信頼はますます篤く、同年9月には内覧を命じられ、さらに12月には従一位左大臣に昇進。
あわせて関白となるよう詔勅が下され、拝受した。
以後、朝彦親王と並んで孝明天皇を補佐し、長州処分問題、条約勅許問題、徳川慶喜の徳川宗家相続問題などの重要な政務を取り仕切り、親幕派公卿として活躍。
このため、王政復古派の公卿から反撥され、慶応2年(1866年)8月には中御門経之・大原重徳ら22名の廷臣が列参して、朝政改革を奏請する事態に発展、斉敬および朝彦親王の罷免を要求するに至った。
このため、斉敬は国事扶助の任に耐えずとの理由により辞表を奉呈するが、2人に対する孝明天皇の信頼は篤く、辞意は認められなかった。
かえって翌月、22名の廷臣が譴責処分を受けることとなった。
ひとまず危機は乗り越えたものの、肝心の孝明天皇が同年暮れに崩御。
斉敬の地位は安泰ではなくなる。
翌慶応3年正月、明治天皇が践祚すると、引きつづき摂政に任ぜられ、国政に当たったが、この頃より次第に王政復古派が復権。
ついに10月には徳川慶喜が大政奉還を行い、朝廷に政権を委ねるに至る。
12月9日の王政復古の大号令により、天皇親政が宣言され、摂関は廃止された(ただし摂政は後に皇室典範の定めにより皇族が臨時に任命されることになり、実際昭和天皇が皇太子時代に大正天皇の摂政となった事例がある)。
それにともない斉敬も、朝彦親王とともに参朝を停止された。
翌年8月には赦されたが、その後朝政には参与することは無かった。
明治2年(1869年)3月、明治天皇の東京行幸中の大宮御所御用掛、同年7月麝香間祗候を命ぜられる。
明治11年(1878年)12月没、享年63。
嵯峨野の二尊院に葬られた。
養子の二条基弘(九条尚忠の八男)が二条家を継いだ。
実子としては二条正麿(分家して男爵)、宮橋利敬(宮橋家へ養子。のち慶光院と改姓)、四条隆英(四条家へ養子)などがいる。
またその他、二条寛斎という隠し子がいたとも言われる。
官職位階履歴
1824年(文政7年) 従五位下、従四位下左近衛権少将、正四位下右近衛権中将
1825年(文政8年) 従三位
1827年(文政10年) 正三位
1828年(文政11年) 権中納言
1831年(天保2年) 権大納言
1832年(天保3年) 従二位
1838年(天保9年) 正二位
1859年(安政6年) 内大臣
1862年(文久2年) 従一位右大臣
1863年(文久3年) 左大臣
1864年(文久4年) 関白、藤氏長者
1867年(慶応3年) 左大臣を辞す、摂政