井上毅 (INOUE Kowashi)

井上 毅(いのうえ こわし、天保14年12月18日 (旧暦)(1844年2月6日) - 明治28年(1895年)3月17日)は、日本の武士、官僚、政治家である。
子爵。
法制局長官、文部大臣などを歴任する。

経歴

肥後国に熊本藩家老長岡是容の家臣飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になる。
必由堂(熊本藩家老である米田家の家塾)、熊本藩の藩校の時習館で学び、江戸や長崎へ遊学し、明治3年(1870年)には開成学校で学ぶ。
翌年に明治政府の司法省に仕官し、フランス語ができたためフランスに留学、帰国後に大久保利通に登用される。
大久保の死後は岩倉具視に重用され、安定政権を作れる政府党が出来る環境にない現在の日本で議院内閣制を導入することの不可を説いて、ドイツ式の国家体制樹立を説いた。
明治14年の政変では岩倉具視、伊藤博文派に属する。

国学等にも通じ、伊藤とともに大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語、軍人勅諭などの起草に参加した。
明治23年(1890年)には枢密院 (日本)となり、明治26年(1893年)発足の第2次伊藤内閣においては文部大臣を務める。

井上は保守的で中央集権国家の確立に尽力して政党政治に強く反対した。
しかし、法治国家・立憲主義の原則を重んじて、その原則で保障された国民の権利は国家といえども正当な法的根拠がない限り奪うことが出来ないと考えていた。
そのため、これらを否定するような反動的な主張に対しては毅然とした態度で立ち向かったという。
また、超然主義に対しても行き過ぎた議会軽視であると批判的であり、法制局長官としては議会に有利な判断を下すことも多かったとされている。

中江兆民は遺著「一年有半」の中で井上と白根専一を「真面目で横着ではなく、ずうずうしいところのない」と評して敵対者ながらその人物を高く評価している。

伊藤博文と井上毅

伊藤博文は徳大寺実則あての書簡で井上を「忠実無二の者」と評し、宮中保守派との対決のために自ら宮内卿を兼ねた際にも自分の側近から井上だけを図書頭として宮内省入りさせる。
など能力を高く買い信頼もしていた。

だが一方で自分の信念に忠実な余り過激な振る舞いに出ることがあり、明治14年の政変の際には井上が勝手に岩倉具視に対してドイツ式の国家建設を説いてこれを政府の方針として決定させようとした。
この事を知った伊藤は井上に向かって「書記官輩之関係不可然」と罵倒(1881年7月5日付岩倉具視宛井上書簡)している。

また後年、井上馨の条約改正案に反対していた井上がギュスターヴ・エミール・ボアソナードによる反対意見書を各方面の反対派に伝えて条約改正反対運動を煽ったために第1次伊藤内閣そのものが危機に晒される。
このように、伊藤は井上によるスタンドプレーに悩まされることもあった。

[English Translation]