京極高久 (KYOGOKU Takahisa)
京極 高久(きょうごく たかひさ、享保14年4月24日 (旧暦)(1729年5月21日)- 文化 (元号)5年4月20日 (旧暦)(1808年5月15日))は、丹後国峰山藩の第6代藩主。
峰山藩分家で1000石を領した旗本・京極高庭の四男。
母は京極高方の娘。
正室は木下利潔の娘。
弟に瀬名孫助、大岡直往、池田富郷。
子に京極高備(長男)、京極高有(五男、但馬国豊岡藩主)。
官位は従五位下、備前国守。
享保14年(1729年)4月24日、江戸にて生まれる。
幼名は千之助。
寛保元年(1741年)、第5代藩主・京極高長の養子となり、明和2年(1765年)8月8日の高長の隠居により、その後を継いで藩主となった。
大坂青屋口の加番や大番頭を務めた後の天明8年(1788年)、若年寄に任じられて寛政の改革期の幕政に参与した。
このため、峰山藩の藩政は長男・高備が取り仕切ることとなった。
寛政3年(1791年)、病気を理由に若年寄の辞任を求めたが許されなかった。
丹後峰山藩京極家と同じく、藩祖で丹後一国を支配した京極高知の子孫で同族に当たる但馬豊岡藩京極家に五男・高有を養子に出したことでも知られる。
文化5年(1808年)4月20日、江戸にて死去し、後を高備が継いだ。
享年80。
法号:謙徳院明誉高久道徴。
墓所:京都府京丹後市峰山町吉原の安泰山常立寺。
高久は「京極備前守」の名で池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』にも登場し、鬼平こと長谷川平蔵の良き理解者として描かれている。