京極高清 (KYOGOKU Takakiyo)
京極 高清(きょうごく たかきよ、1460年(寛正元年) - 1538年(天文 (元号)7年))は室町時代末期から戦国時代 (日本)初期の大名。
京極氏の出身。
応仁の乱の混乱を乗り切り、同族との家督争いを経て当主になったが、自身の子の代の家督争いを防ぐことはできず京極氏の衰退を招いた。
守護大名である京極持清の四男とも、持清の嫡子京極勝秀の子ともされ、幼名は乙童子丸と称した。
六郎。
中務少輔。
応仁の乱が起こると、持清は、近江国で西軍に属した六角高頼と戦うが、その戦いの中1470年(文明 (日本)2年)に病死する。
持清の長男京極勝秀と次男京極政光は既に亡くなっており、勝秀の嫡子と考えられている京極孫童子丸が家督を継ぐが、1471年(文明3年)に死去する。
その跡目を巡って持清の三男である京極政経と争い、敗北により越前国の敦賀市へと逃れる。
その後所在を転々とするが、1488年(長享2年)8月に近江松尾での政経との戦いに勝利し、政経を伊勢国へと敗走させ、1492年(明応元年)には征夷大将軍足利義稙から家督を安堵され、翌年には江北に帰還する。
しかし、1497年(明応5年)に助力を得ていた美濃国守護代斎藤利国が亡くなると、再び政経に追われ、美濃海津に寄留する。
だが翌々年には京極氏重臣である上坂家信の助力を得て江北へと帰還し、1505年(永正2年)には政経の子である京極材宗と和解し、ついに家督争いを勝利で終える。
1509年(永正6年)には上平寺城を築いて居城とし、上坂家信の死後は家信の後を継いだ上坂信光を頼っていたが、1523年(大永3年)に、高清の後継を巡って、長男の京極高延を押す浅見貞則、浅井亮政らと、次男の京極高吉(京極高次の父)を推す高清、信光らに家中は分かれ、翌年には戦いへとおよび、敗れた高清らは尾張へと逃れる。
しかしその年内には、貞則を下して江北の覇権を手にした亮政に、その居城である小谷城の京極丸へ、長男の高広と共に招かれ饗応される。
この一件により江北の実質的な支配者は京極氏から浅井氏へ移ったとされる。
高清はその後、余生を上平寺城で過ごし亡くなったとされる。