京極高知 (KYOGOKU Takatomo)

京極 高知(きょうごく たかとも、元亀3年(1572年) - 元和 (日本)8年8月12日 (旧暦)(1622年9月17日))は、安土桃山時代から江戸時代に活躍した戦国大名。
宮津藩の祖。

関ヶ原の功により丹後一国および守の称号を与えられ国持大名となる。

京極高吉の子。
母は浅井久政の女(京極マリア)。
兄に京極高次がいる。
正室は織田信澄の娘、継室は毛利秀頼(尾張守護斯波氏)の娘。
嫡男は京極高広、三男に田辺藩主京極高三、養子に峯山藩主京極高通 (丹後国峰山藩主)、娘婿に八条宮智仁親王、京極高通、六郷政勝。

当初より豊臣秀吉に仕え、長年の功績により羽柴姓を許されるまでになり、羽柴伊奈侍従と称す。
文禄2年(1593年)に義父である毛利秀頼の遺領を継ぎ、信濃国伊那郡6万石・飯田城となり従四位下侍従に任ぜられた。
文禄3年(1594年)には10万石に加増された。
秀吉の死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年(には織田秀信が守る岐阜城攻めに参戦、関ケ原の戦いでも大谷吉継隊と死闘を演じる等、最前線で抜群の戦功を挙げ、戦後、丹後国宮津藩12万3千石を与えられて国主として京極丹後守と称すことを許された。
田辺城 (丹後国)に入城後、宮津城に拠点を移す。
宮津藩は庶流への分封があったため、嫡流は宮津藩主となる。
ところが宮津藩は、三代にして改易。
その後、子孫が高家として取り立てられ幕末まで続く。

宮津藩は宮津藩、舞鶴藩、峰山藩に三分割された。
舞鶴藩京極家は但馬へ転封となったが、峰山藩京極家は幕末まで一度の転封もなく丹後の所領を守り通した。
峰山藩京極家からは幾人もの若年寄が出、江戸幕府中枢において活躍した。

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