伊勢貞親 (ISE Sadachika)

伊勢 貞親(いせ さだちか、1417年(応永24年) - 1473年2月18日(文明 (日本)5年1月21日 (旧暦)))は、室町時代の室町幕府政所執事である。
父は伊勢貞国、母は蜷川親俊の娘。
兄弟に伊勢貞藤。
子に伊勢貞宗。
法号は聴松院悦堂常慶。

1454年(享徳3年)に家督を相続する。
8代将軍足利義政の幼少の頃から養育し、1443年には管領の畠山持国の仲介で義政との擬似父子関係を取り結んだ。
また分一銭制度の確立などを通じて幕府財政の再建を成功させて信任を得る。
1460年(寛正5年)に政所執事に就任する。
禅僧の季瓊真蘂らとともに政務に消極的な義政に代わって実権を持つ。

1464年に義政の正室の日野富子が男子(足利義尚)を産むと、貞親は義尚の乳父となる。
この頃、斯波氏の斯波義敏と斯波義廉の間で行われていた家督争いがあった。
貞親はこれに介入し、1466年(文正元年)には貞親らは義政に進言して斯波家家督を義敏に与えさせるが、山名持豊(宗全)や義敏派であった細川勝元らが義廉支持に回る。
義尚誕生後に発生した次期将軍が決定していた義政の弟の足利義視との間で将軍後継問題が発生し、同年には義尚の乳父であった貞親は義視を排斥するために義視謀反の噂を流す謀略を行う。
義視が勝元を頼ると讒訴の罪を問われて近江国(滋賀県)へ逃れ、真蘂や赤松政則ら貞親派が失脚する文正の政変に至る。

翌1467年(応仁元年)には細川勝元率いる西軍と山名持豊率いる東軍との間で戦端が開かれ応仁の乱に至ると、義政に呼び戻され復帰する。
1471年に出家して政務を引退した。
1473年に死去、享年57。

応仁の乱の原因を作った1人とも言われ、『応仁別記』という本には「世の中は 皆歌読に 業平の 伊勢物語 せぬ人ぞなき」という落首が伝わる。
また、子の貞宗に対して『伊勢貞親教訓』を残す。
ちなみに北条早雲(いわゆる北条早雲)は、貞親の同族備中国伊勢氏の当主で貞親と共に幕政に関与した伊勢盛定の嫡男(一説には盛定の妻は貞親の姉妹であり、貞親と盛時は伯父と甥の関係であるもいう)とされ、貞親の推挙によって足利義視に仕えたと言われている。

伊勢貞親教訓

伊勢貞親教訓(いせさだちかきょうくん)は、室町時代後期に伊勢貞親が嫡男貞宗に対して著した教訓状である。
全38条の本文及び執筆意図について記した覚書(末文と和歌1首)により構成されている)。

執筆年代については諸説あるが、貞宗が元服を控えた長禄年間とする説が有力である。
伊勢氏が代々武家故実の伝承するとともに足利将軍家の嫡男の養育にあたり、また自身も足利義政の養育に尽した経験から、武家の教育において重要視すべき点を説いて、将来貞宗に期待されるであろう役割に対する自覚を促したものである。
貞親自身は『為愚息教訓一札』と命名しているように、彼が説いている事は伊勢氏の当主として必要であると思われた事を記した家訓であり、流布を目的に書かれたものではない。
しかし、武家、特に大名家の後継者教育にとっては重要視されるべき点について体系的に論じられており、貞親が「“大名教育学”の祖」とされる所以である。

貞親は大きく分けて次の4つの点を重要視している。

神仏にたいする崇敬の念を怠らないこと。

政務においてあるいは一族郎党を率いる棟梁として、上下・主従の礼を厳守させること。
同時に従者としての礼を守り、忠義に尽くす者に対しては恩賞を与えるなどの配慮を欠かさないこと。

武家として身に付けるべき教養として真っ先に「弓馬」を挙げて、日々怠ることがないことを説き、続いて学問の必要性を説く(ただし、「弓馬」ほどは強調しない)。
芸能は(良くも悪くも)人目につかない程度で十分としている。
これに対して犬追物は「越度(=度を越した)なき」とし、猿楽は「よきほどに可斗」として深入りを戒めている。

最後に平生の礼儀を守ることの重要性を説く。
特に伊勢氏は政所執事・武家故実宗家であり、日常的な部分より礼儀作法を重んじることは一族郎党に対する棟梁の権威を守り、幕府内部においての地位を保つために重要であることとする。
特に来客に対して不愉快にさせないことは、政治的な味方を1人でも多く得る(逆に考えれば敵対者を生み出さない)上でも必要であるとしている。

以上の「神仏への崇敬」「公私における主従関係の徹底」「武芸を重視した教養の習得」「日常からの礼儀作法の厳守」という4点は、伊勢氏に限らず武家一般の基本的なあり方について論じている部分が多く、鎌倉幕府の北条重時による『北条重時家訓』と並んで後世に影響を与えた。

[English Translation]