伊藤若冲 (ITO Jakuchu)
伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう、 正徳 (日本)6年2月8日 (旧暦)(1716年3月1日) - 寛政12年9月10日 (旧暦)(1800年10月27日))は、江戸時代の京の絵師。
写実と想像を巧みに融合させた「奇想の画家」として曾我蕭白、長沢芦雪と並び称せられる。
生涯
正徳6年(1716年)、京都・錦小路の青物問屋「枡源」の跡取り息子として生まれる。
23歳のとき、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名する。
「若冲」の号は、禅の師であった相国寺の禅僧・大典顕常から与えられた居士号である(「居士」は、在家の仏教信者のこと)。
大典の書き遺した記録『藤景和画記』によると、若冲という人物は絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さなかったという。
商売には熱心でなく、芸事もせず、酒もたしなまなかった。
生涯、妻もめとらなかった。
40歳の宝暦5年(1755年)には、家督をすぐ下の弟に譲ってはやばやと隠居し(当時、40歳は「初老」であった)、念願の作画三昧の日々に入った。
以後、85歳の長寿を全うするまでに多くの名作を残している。
作風
「続書家人物志」(青柳文蔵)には、若冲が狩野派の画家大岡春卜に師事したとの記述があり、大典顕常による若冲の墓碑銘にも狩野派に学んだとあるが、誰かに師事したことを示す史料はない。
現存作品の作風から狩野派の影響を探すのは困難だが、図様について、狩野派の絵本との類似点が指摘されている。
(なお、大岡春卜は狩野派の絵本の出版を通して、その図像・画法の普及に貢献した人物である。)
前記の墓碑銘によると、若冲は狩野派の画法に通じた後その画法を捨て、宋元画(濃彩の花鳥画)に学び、模写に励んだとしている。
さらに、模写に厭いた若冲はその画法をも捨て、実物写生に移行したと伝える。
実物写生への移行は、当時の本草学の流行にみられる実証主義的気運の高まりの影響も受けていると言われる。
また、大典顕常が読書を通じて宋代の画家の写生の実践を知り、それを若冲に伝えたとも言われる。
作品は、山水画は少なく、濃彩の花鳥画、とくに鶏の絵を得意とした。
美しい色彩と綿密な描写を特徴とするが、写生画とは言い難い。
若冲独特の感覚で捉えられた色彩・形態が「写生された物」を通して展開されている。
代表作の「動植綵絵」(どうしょくさいえ、動植物を描いた彩色画の意)30幅は、鶏、鳳凰、草花、魚介類などが、さまざまな色彩と形態のアラベスクを織り成す、華麗な作品である。
綿密な写生に基づきながら、その画面にはどこか近代のシュルレアリスムにも似通う幻想的な雰囲気が漂う。
「動植綵絵」は、若冲が相国寺に寄進したものであるが、のち皇室御物となり、現在は宮内庁が管理している。
再評価
若冲はつい最近まで知る人ぞ知る画家であったが、1970年に辻惟雄の『奇想の系譜』が出版されて以来注目を浴び、特に1990年代後半以降その超絶した技巧や奇抜な構成が再評価され、飛躍的にその知名度と人気を上げている。
代表作
動植綵絵30幅(宮内庁三の丸尚蔵館)
鹿苑寺大書院障壁画50面(承天閣美術館)重要文化財
仙人掌群鶏図(大阪・西福寺)重要文化財
蓮池図襖(大阪・西福寺)重要文化財
鳥獣草花図屏風(プライスコレクション)
果蔬涅槃図(京都国立博物館)
菜虫譜(佐野市立吉澤記念美術館)
樹花鳥獣図屏風(静岡県立美術館)
糸瓜群虫図(細見美術館)
群鶏図(京都国立博物館)
鶏頭蟷螂図
展覧会
2000年に京都国立博物館にて「没後200年」を記念して行われた展覧会により、爆発的ブームが起こった。
2006年は、伊藤若冲に関する展覧会が各地で開催された(愛知県美術館、大倉集古館、MIHO MUSEUM、泉屋博古館(京都)、山口県立萩美術館・浦上記念館、東京国立博物館、京都国立近代美術館、九州国立博物館、愛知県美術館、皇居・三の丸尚蔵館)
2007年は、伊藤若冲ゆかりの相国寺内の承天閣美術館で開催された。