佐久間信盛 (SAKUMA Nobumori)
佐久間信盛(さくま のぶもり)は、安土桃山時代の武将。
織田信長の家臣。
佐久間氏の当主。
国司、右衛門尉。
子に佐久間信栄、従兄弟に佐久間盛次(佐久間盛政、佐久間安政、柴田勝政、佐久間勝之の父)がいる。
生涯
尾張国に生まれ、織田信秀に仕える。
幼少の信長に重臣としてつけられ、信秀死後の家督相続問題でも一貫して信長に与し、織田信行謀反の際も信長方の武将として戦った。
その功により以後家臣団の筆頭格として扱われ、「退き佐久間」(殿軍の指揮を得意としたことに由来)といわれた。
信長に従って各地を転戦し織田家の主だった合戦には全て参戦、近江国の六角氏との戦い(観音寺城の戦い)では、箕作城を落とすなどの戦功をあげ、長島一向一揆や越前国での対一向一揆戦でも活躍した。
浅井氏が織田氏に敵対した後は、柴田勝家と共に南近江を平定している。
比叡山焼き討ち (1571年)で武功を上げ元亀2年(1571年)11月には知行地として近江国の栗太郡を与えられている。
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、平手汎秀と共に3,000の兵を率い、徳川家康8,000の援軍に赴くも、信盛は27,000の武田氏を目の当たりにし、ほとんど戦わずして退却。
同じ援軍の将であった汎秀は家康軍と共に戦い戦死している。
天正元年(1573年)8月、戦場から離脱する朝倉義景軍の追撃を怠った織田家臣団の面々は、信長の叱責を受ける。
その際信盛は涙を流しながら「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷(そうは言われましても我々のような優秀な家臣団をお持ちにはなれますまい)」と弁明し、信長の怒りに油を注いだ(『信長公記』)
天正4年(1576年)には、本願寺攻略戦の指揮官である塙直政の戦死を受け、後任として対本願寺戦の指揮官に就任、畿内7ヶ国の与力をつけられた信盛配下の軍団は、当時の織田家中で最大規模であったが、本願寺の熾烈な抵抗もあって戦線は膠着した。
天正8年(1580年)、信長自らが朝廷を動かし本願寺と和睦して、10年続いた戦に終止符を打った。
この時点まで佐久間は近畿の地に織田家中で最大規模の軍団を統括し、信長相続前からの古参であることもあわせ、作家津本陽いわく”織田株式会社の副社長”ともいうべき位置にあった。
同年8月、信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられ、信盛は嫡男・佐久間信栄と共に高野山に追放された。
譜代の筆頭老臣であり、最大規模の軍団長という立場からの突然の追放は内外に大きな衝撃を与えた。
その後高野山すら在住を許されずにさらに南に移動、佐久間家の郎党も次々に信盛親子を見捨てて去っていった。
高野山に落ちるときはつき従う者二、三名、熊野に落ちるときは一名きりだったという(忠誠を感謝され信栄の帰参時には小者から士分となった)。
『信長公記』はこの間の佐久間親子の凋落をあわれみをもって記している。
また、信盛失脚後に近畿地区で大軍団を統率することになったのは明智光秀であり、苛烈な人事が家臣団に与えた動揺ともども、この追放は本能寺の変と密接に結びついて語られることが多い。
天正10年(1582年)1月16日紀伊国熊野市にて死去した。
享年55。
法名は洞無桂巌または宗佑。
直後に信栄は信忠付の家臣として帰参を許された。
資料による検証
佐久間氏の武功を記録した佐久間軍記には、この追放について「だれかの讒言でもあったのではないか」という意味のことが書かれており、この書が成立した江戸初期でもそのような見方が存在していたことが伺える。
また、寛政重修諸家譜の佐久間信栄(正勝)の項には下記のようにある。
後明智光秀が讒により父信盛とともに高野山にのがる。
信盛死するののち、織田信長其咎なきことを知て後悔し、正勝をゆるして城介織田信忠に附属せしむ。
信長による19ヶ条の折檻状
一、佐久間信盛・信栄親子ともども天王寺に五年間在城しながら何ら功績もあげていない。
世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり口惜しい思いをしている。
一、何ら功績もあげていない信盛らの気持ちを推し量るに石山本願寺を大敵と考え、戦もせず、調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、幾年かもすればゆくゆく信長の威光によって引き下がるであろうという見通しだったのか。
武者道というものはそういうものではない。
勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても本意なことであったのに、一方的な思慮で持久戦に固辞し続けたことは分別もなく浅はかなことである。
一、明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこし、豊臣秀吉の功労も比類なし。
池田恒興は少禄の身であるが摂津花隈を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。
これを以て奮起を発し一廉の働きをすべきであろう。
一、柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前国一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した。
一、武力に不甲斐ない者は謀略などをこらし、相足らぬ所を報告し意見を聞きに来るのに、五年間それすらない。
一、信盛の与力・保田知宗の書状では本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散するであろうとあり、信盛親子も連判している。
今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分のくるしい立場をかわすためあれこれ理由を付け言い訳しているのではないか。
一、信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。
三河国・尾張・近江国・大和国・河内国・和泉国に、根来衆を加えれば紀伊国にもと七ヶ国から与力をあたえられている。
これに自身の配下を加えれば、どんな一戦を遂げようともこれほど落ち度を取ることはない。
一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので家臣も増えたかと思えばそうではない。
水野の旧臣を追放しておきながら、跡目を新たに設けるでもなく、結局、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄としてしまうのは言語道断。
一、山崎の地も同様で信長の声かかりの者まで追放してしまう有様。
これも先の刈谷と同じである。
一、譜代の家臣に知行を加増してやったり与力を与えたり、新規に召し抱えたりしているなら未だいいがそれも無い。
ただ自身の蓄えを肥やすのみであり、天下の面目を失ってしまった。
これは唐・高麗・南蛮の国まで隠れもないことである。
一、先年、朝倉をうち破ったとき、戦機の見通しが悪いとしかったところものともせず、結局自身の正当性を吹聴し、あまつさえその場を立ち破るに至って信長も面目を失った。
その口程もなくここに在陣し続けていまの働きの程は前代未聞である。
一、甚九郎(信栄)の罪状を書き並べればきりがない。
一、大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。
その上、いい加減な働きをすれば、行き着くところ親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になる。
一、与力を専ら使役し、他への取り次ぎや戦事にはこの与力で軍役を済まし自身の家臣を使わない。
領地をただ遊ばせ無駄にしている。
一、信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。
自身の思慮を自慢し穏やかなふりをしても綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。
一、信長の代になり30年間奉公し信盛の活躍は比類なしと言われるような働きは一度もない。
一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原の戦いへ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。
しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていればその甲斐あって運良く戦死を免れたと人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。
あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。
一、こうなればどこかの敵をたいらげ、汚名を濯いだ上帰参するか、どこかで討死するしかない。
一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。
信盛への評価
非難
石山合戦が長期に及んだ点は、中国攻めにおける秀吉のように信長に対策を求める事もなく、陣中で茶会三昧の所業は無為の証左に他ならない。
なお、後述の滝川一益や前田利家、この2人は確かな結果を出しているため比較対象には適切ではなく(利家は信盛とは地位・権限や態度にも大きな違いがある)、信盛が軍費をケチった為に本願寺勢に打撃をあたえられず、数年間もの間持たせ、またその費用を道楽につぎ込んだようにも見える。
三方ヶ原の戦いの際の信盛の「戦意喪失」の末の逃亡は、真正面から戦闘をした家康や平手汎秀らの武士としての姿勢とは程遠いものがあった。
また、同盟者である家康を見殺しにしたとも見えるこの行動は、織田家の宿将ともいえる人物の行いとしては適切とはいえず、家康が死んだ場合の徳川家が敵側へと回る可能性を上げたり、同盟する者を減らすなどの織田家全体に関わる問題に発展した可能性がある。
このように、家康の判断等の過程はどうあれ同盟者への安全確認も満足にしなかったのは、間違いであったと言わざるを得ない。
しかし、この点に関しては家康が無謀な策に打って出てしまった失敗も考慮しなければならない。
ちなみに、織田信長も金ヶ崎の戦いでは同様にただ一目散に逃亡したかのようであるが、退却戦である上に挟撃されるという状況ながら大した混乱もなく本隊は被害を小規模に留めており、この事からある程度の指示を与えてから僅かな手勢のみを引き連れて逃亡したのであり、見殺しにしたわけではない。
我侭三昧やっておいて「私は職責を果たしている」と言い切れるものでは無く、朝倉攻めの際の弁明は過去の功績に胡座をかいた上での驕りと断じざるを得ない。
実際、本願寺に対して有利に進めたわけではなく、誰もが認めるほどの結果を残さなかったのは事実である。
また、このような状況ながら前述の様に道楽ともいえる茶に傾倒したのも軽率であった。
息子の信栄の不行状も父の驕りを見て育ったからのものであり、信盛の責任である。
擁護
石山合戦の際に討伐に4年もかかった件については相手に鉄砲が多く力攻めが無理であり調略のきかない本願寺勢であること、海上封鎖ができず海から本願寺に兵糧を運びこめたことを考えれば致し方ないといえる。
また荒木村重の謀反が示すように、当時の畿内情勢は決して織田家にとって磐石の状態ではなかった。
三方ヶ原の戦で味方を見殺しにした点についてはむしろあの状況で野戦に打って出た家康の状況判断に非がある(徳川軍は織田の援軍を含めれば籠城に必要な兵力をそろえていたため、籠城すれば敗戦とならなかった可能性が高い)。
信盛が死んだ場合、対武田戦・本願寺戦の指揮をとる人物がいなくなり戦線に混乱を招く恐れがあった。
これらのことを考えれば、戦わずして逃げたことは最善とはいえなくても許容範囲である。
(現に信盛の前任、塙直政が戦死したときに本願寺戦線が崩壊し、織田家そのものが崩壊しかけた。)
(また、金ヶ崎の戦いで信長自身が同様の行為をしているが、批判の対象とされてないことも考慮すべきである。)
朝倉攻めで口答えした件については、信盛が家来の長老格であるためその場を取り繕おうとしたのだろうとも考えられる。
主君にいきすぎがあればそれを諌めることは家来の務めである。
確かに信長にとって出すぎたまねには違いない。
ただ、追放の理由としては弱すぎる。
家来を養わないことについては、信盛が勘定ができ必要以上の家臣を雇わなかったということだから高級幹部としてはむしろ美徳である。
家臣が少なかったことによる失敗は三方ヶ原の合戦しかないが、上述の通りこの失敗は家康の判断ミスが最大の原因である。
問題になっている石山合戦についても兵糧攻めに必要な人数はきちんとそろえており、塙直政のように囲みを破られる失態は犯していない。
また、各地の援軍もそつなくこなしている点も考えれば家臣を雇わなかった点については非難する理由とならない。
なお、滝川一益や前田利家なども石高に比して家臣を養っていないが罰せられていない。
信栄の行状が悪いことについても、たしかに親や一族の長としての責任は大きいが、信盛が職責を果たしている以上、追放の理由になるほどの問題とはいえない。
こう考えると、折檻状の内容では追放の理由としては弱く、また、信盛自身に謀反の兆候があった証拠もないから、信長がそのような評価を下したとすれば信盛の運がなかった、あるいは信長の内心に理由があったという見方もある。
信盛の死後まもなく信栄の帰参が許されたのは信長が反省したと判断した、もしくは自身の評価の誤りを自覚してたからとも解釈できる。
作家・樋口晴彦は著書『信長の家臣団―「天下布武」を支えた武将34人の記録』の中で、信盛が追放された理由は、畿内・美濃を織田家の直轄地とする信長の天下統一構想において双方に領地を持つ信盛の存在が邪魔になったためで、19ヶ条の折檻状は無条件で領地を取り上げるための言いがかりであったとしている。
事実、信盛追放後にその領地は信長と信忠で分割されている。
そして、同じく畿内に領地を持つ明智光秀がこの追放劇に危機感を覚え、後に自身の領地である近江国坂本郡・丹波国の領地を召し上げられた事が本能寺の変のきっかけになったと分析している。
どちらにせよ、折檻状は命を惜しんで隠棲するか命を懸けて功績を挙げ挽回するかという道を選ばせており、少なくとも追放されたのは信盛自身が選択したことで信長自身が問答無用で追放したのではないことを考慮する必要がある(ちなみに前田利家は功績を挙げて挽回したくちである)。
また、このことから林美作等よりも評価していたようである。