佐伯全成 (SAEKI no Matanari)
佐伯 全成(さえき の またなり、? - 天平勝宝9歳(757年))は、奈良時代の貴族。
本姓は「佐伯宿禰」。
陸奥守兼鎮守副将軍。
従五位上。
概要
天平15年(743年)、橘奈良麻呂から皇太子に黄文王を据えるよう謀反を唆されるが全成は拒絶。
天平18年(746年)、従五位下。
この時期全成は陸奥国介として蝦夷征討や陸奥国の政務についていたものと考えられている。
天平21年(749年)、当時金の産出がなされていなかった日本において陸奥守百済王敬福が黄金を発見し黄金900両を聖武天皇に献上した。
東大寺の造営に多量の金を必要としていた聖武天皇はこれに狂喜し元号を天平から天平感宝に改め、同年5月11日、元陸奥国介であった全成も正五位上に昇進した。
さらに天平勝宝4年(752年)5月26日、百済王敬福が常陸守に任ぜられるとその後任として陸奥守に任ぜられた。
また全成は4月9日の東大寺廬舎那大仏開眼供養において久米舞舞頭を務めている。
聖武天皇が譲位し孝謙天皇が即位した天平勝宝(749年)11月、全成は再び奈良麻呂から謀反の計画を謀られていた。
しかしこのときも全成は謀反への協力を拒絶した。
天平勝宝8歳(756年)4月、聖武太上天皇不予の際黄金を納めるため陸奥より上京した全成は奈良麻呂から三度目の謀反計画を謀られた。
大伴古麻呂とともに佐伯・大伴両氏族を率いて黄文王を擁立し仲麻呂派を除こうというものであったが、両者はこれを拒絶した。
同年6月4日、聖武太上天皇が崩御すると孝謙天皇の皇太子には遺言により道祖王が立太子された。
しかし,翌天平宝字元年(757年)3月、道祖王が孝謙天皇の不興を受けたため廃太子となると、5月に仲麻呂が推す大炊王が立太子された。
この一件により奈良麻呂派と藤原仲麻呂派の対立は抜き差しならぬものとなった。
対立の原因は孝謙天皇の母光明皇后(光明子)が藤原氏出身であり、仲麻呂が孝謙天皇の寵愛を受けていたためそれを背景に仲麻呂が急速に台頭していたからである。
道祖王の廃太子にも光明皇后と仲麻呂が関与していたという説もある。
天平勝宝9歳(757年)6月16日、大伴古麻呂が陸奥鎮守将軍となり、全成は陸奥鎮守副将軍兼任となる。
この人事は奈良麻呂派とみられていた古麻呂を中央から放逐したいと考えていた仲麻呂による事実上の左遷人事であった。
全成もまた仲麻呂派とみなされていたためずっと陸奥に閉じ込めておくための人事であったと考えられる。
この時、奈良麻呂もまた兵部卿を解任され右大弁に左遷されている。
6月中旬以降、奈良麻呂派は奈良麻呂邸などで反仲麻呂派の謀議をもつようになった。
大伴古麻呂や小野東人は参加していたものの,全成が一連の謀議に参加していたかどうかは定かではない。
しかし、この謀議は6月28日、山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂邸を囲む」旨を密告し露見することとなった。
7月2日、上道斐太都が小野東人から奈良麻呂らの謀反への参加を呼びかけられたと仲麻呂へ密告したことにより、仲麻呂は直ちに中衛府の兵を動かして前皇太子道祖王の邸を包囲し、小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下した(橘奈良麻呂の乱)。
捕らえられた奈良麻呂派の者たちは次々と拷問にかけられた。
全成もその一人で、7月4日、奈良麻呂の謀反を証言した後自害した。
橘奈良麻呂の乱では謀反に無関係であった反仲麻呂派の者も数多く捕らえられ、拷問の後に死亡したり官位を剥奪された上で流刑となった者も多いため全成もそういった人物の一人ではないかと考えられている。