佐伯惟定 (SAEKI Koresada)
佐伯 惟定(さえき これさだ、永禄12年(1569年) - 元和 (日本)4年6月9日 (旧暦)(1618年7月30日))は佐伯惟教の嫡孫。
佐伯惟真の子。
1578年に父と祖父が耳川の戦いで戦死したため、家督を継ぐ。
1586年には島津家久の侵攻にあったが、惟定は居城・栂牟礼城に立て籠もって、これを撃退した。
九州平定後、豊臣秀吉は惟定の奮戦ぶりを絶賛したといわれている。
1592年、文禄の役にも参陣したが、翌年の大友氏改易により惟定も居城を失った。
羽柴秀保を頼り、当時、その家臣であった藤堂高虎に1595年(文禄4)、客将として招かれ五百人扶持を与えられた。
同年、高虎の入封に従い伊予宇和島に移住、翌年、新知二千石を与えられた。
後、藤堂良勝と交替し、国府城城代となる。
慶長の役には、板島城留守役を勤め、当初家臣のみ出陣したが、後に渡海し、海戦で功をあげた。
1599年(慶長4)、帰陣の後、度々加増され禄は三千五百六十石となる。
1600年(慶長5)、関ヶ原の合戦には高虎から宇和島城の留守居役を命じられ、家臣のみ従軍した。
翌年以降、高虎の手掛けた普請に従事し、1605年(慶長10)、四百四十石加増され、禄は四千石となった。
1614年(慶長19)10月の大坂冬の陣には士隊十騎、卒隊四十人を率いて出陣し、当初、旗本士大将であったが、11月26日より右先鋒・藤堂高刑の合備となった。
翌、1615年(元和 (日本)元)の大坂夏の陣では遊軍隊将を命じられたが、5月6日の戦闘で先鋒が壊滅した為、7日は藤堂高吉と共に左先鋒を務めた。
帰陣後、五百石加増され、禄は四千五百石となる。
1618年(元和4)6月9日、病死。
法名・宗忠功月大禅定門。
家禄は子の惟重が継ぎ、以後、佐伯家は藤堂家臣として明治に至る。