佐伯葛城 (SAEKI no Kazuragi)
佐伯 葛城(さえき の かずらぎ)は、奈良時代の貴族。
本姓は佐伯宿祢。
在京官人時代
延暦3年(784年)11月11日 (旧暦)、時の天皇桓武天皇は従前の平城京から長岡京に遷都された。
葛城は新都・長岡宮造営の功労が認められ、同年12月2日 (旧暦)、正六位上から従五位下に昇進する。
この時一族の佐伯今毛人は参議になっている。
葛城は翌年3月11日 (旧暦)に近衛兵令外官に、また同年9月29日 (旧暦)には左少弁を命じられている。
征東副将軍時代
延暦5年(786年)8月8日 (旧暦)、葛城は蝦夷征伐の準備の閲兵と武具点検ため、判官1名、主典1名とともに東海道に遣わされた。
この時東山道には紀楫長が遣わされている。
その翌年2月5日 (旧暦)、葛城は陸奥国介と鎮守府将軍の兼任を命ぜられる。
すぐ後の2月25日 (旧暦)、陸奥介は藤原葛野麻呂に、また鎮守副将軍は池田眞枚に交代して葛城は下野守となっている。
その10月24日 (旧暦)には民部少輔を命ぜられている。
この時点では在京であったと推定される。
しかし翌年の延暦7年(788年)3月21日 (旧暦)、葛城は入間廣成および紀真人とともに征夷大将軍奈良・平安時代に任ぜられ、軍を率いて入征する。
この時の征夷大将軍奈良・平安時代は正四位下紀古佐美、征東副将軍は葛城と入間廣成および紀真人であった。
前軍別将は安倍媛嶋墨縄、左中軍別将は池田眞枚、後軍別将は丈部善理で、その兵数は27,470人であった。
しかし征討軍は胆沢城のアテルイほか紫波郡、和賀郡の蝦夷勢に対し攻めあぐねた。
その衣川の陣営で葛城は没した。
延暦8年(789年)5月26日 (旧暦)、陣没した征東副将軍民部少輔兼下野守勲八等の葛城に 正五位下が贈られた。