六条有房 (ROKUJO Arifusa)
六条 有房(ろくじょう ありふさ、建長3年(1251年)-元応元年7月2日_(旧暦)(1319年7月19日))は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。
父は六条家の祖である右近衛大将六条通有(久我通光の子)、母は藤原清定の娘。
子には六条有忠(千種忠顕の父)がいる。
従一位内大臣にまで昇った。
村上源氏の名門の出であるが、幼くして父・通有が病死する。
通有は未だ正四位下右近衛大将であったために出世は望めなかった。
このため、公卿である従三位非参議となったのは48歳の時であった。
ところが、大覚寺統の後宇多上皇が院政を開始すると院近臣として登用されて急速に昇進し、正安3年(1301年)に左大弁兼参議となると、嘉元元年(1303年)には権中納言に昇進して後に院伝奏を兼ね、延慶 (日本)元年(1308年)には権大納言に達した。
また、二条為世に師事して和歌を学ぶ。
『増鏡』には「この中将才かしこくて末の世にはことの他にもてなされて」云々と記され、当時の歌壇では寵児的存在だったと推察されている。
為世とともに大覚寺統側の歌壇で活躍し、その影響下で『野守鏡』(永仁3年(1295年)、但し異説あり)を著し、持明院統側の京極為兼の歌を激しく論難した。
その後政権が持明院統に移ったために再び不遇となるが、文保2年1月11日_(旧暦)(1318年2月12日)には従一位に叙せられる。
翌元応元年(1319年)、後醍醐天皇の即位によって後宇多上皇の院政が再開された時、有房は病の床にあった。
だが、後宇多上皇の希望により、同年6月28日_(旧暦)に突然、一条内経が内大臣を更迭されて既に危篤状態であった有房が後任とされた。
3日後の7月1日_(旧暦)には急遽、後宇多上皇が有房を見舞う。
この日、有房は内大臣を辞任して出家、翌日に死去した。