内藤弘矩 (NAITO Hironori)
内藤 弘矩(ないとう ひろのり)は、日本の室町時代後期の武将。
周防国長門国の守護大名大内氏の家老として、代々長門守護代を務める内藤氏の当主。
大内政弘、大内義興の2代に仕え重きをなす。
娘(東向殿)はのちに義興の正室となり大内氏嫡子大内義隆を生む。
兄の謀反
応仁の乱のため上京した大内政弘に従い、弘矩は在京、諸所の合戦に活躍した。
長期にわたり上洛し不在だった政弘に対して、1470年(文明 (日本)2年)に伯父の大内教幸(道頓)が謀反を起こした。
それに兄の武盛が加担する。
しかし乱は陶弘護らの活躍により鎮圧されたため、弟の弘矩が武盛に代わって父の跡を継ぎ内藤家の当主となった。
陶弘護暗殺事件
政弘の代は、周防守護代陶弘護とともに大内家重臣として重きをなし、上洛した政弘の留守を守った。
1482年(文明14年)に、宴席でその弘護が遺恨のあった吉見信頼に討たれる事件が起こる。
弘矩はその場で信頼を成敗し、事態を収拾する。
その後は大内家随一の重臣として権勢を振るう。
大内義興により誅殺
1494年(明応3年)に病態の政弘が義興に家督を譲ったあとは、若年の君主を補佐した。
しかし翌年、義興への家督相続に際して兄弟の大内高弘の擁立を画策したと陶弘護の子陶武護が義興に讒言した。
それを信じた義興の命により、弘矩は子の弘和とともに誅殺された。
のちに弘矩が無実であることが判明したため、義興は弘矩の娘を正室に迎えるとともに、弘矩の死後家督を継いだ弘春の嫡子興盛に弘矩の娘をめあわさせるなど、弘矩の名誉回復と内藤氏との関係修復に腐心した。
讒言した武護は死を賜った。
義興に嫁いだ娘は、義興の嫡男亀童丸(のちの大内義隆)を産んでいる。
人物・逸話
陶弘護暗殺後の陶氏の家督争いには、弘矩が暗躍したともいわれている。
また、文人としても活動しており、当代屈指の連歌師宗祇とも交流した記録がある。