内藤魯一 (NAITO Roichi)

内藤魯一(ないとう ろいち、弘化3年8月8日 (旧暦)(1846年9月28日) - 明治44年(1911年)6月29日)は、幕末から明治にかけて活躍した自由民権家。

内藤家は、代々譜代大名板倉氏の家老職の家柄であった。
明治12年(1879年)には愛知で三河交親社を設立、翌年には組織を拡大改組し愛知県交親社を設立。
後に自由党の設立に関わり幹事に選出され、日本憲法見込案(私擬憲法)を起草。
また、板垣退助の秘書となり、板垣が遭難した時には、暴漢を投げ飛ばして取り押さえ、窮地を救ったとも言われる。
この遭難事件の際に板垣が叫んだとされる「板垣死ストモ自由ハ死セズ」は、内藤が叫んだものという説もある。

第1回衆議院議員総選挙に出馬するも落選。
県議会議員を10年以上に渡って務め、後に再び衆議院議員選挙に立候補し当選。
立憲政友会に所属した。

愛知県知立市に内藤の銅像がある。

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