円融院 (Enyuin)
円融院(えんゆういん、天文 (元号)18年(1549年) -没年未詳)は、三浦桃寿丸、宇喜多秀家らの母。
三浦貞勝、宇喜多直家に嫁ぎ、一説に豊臣秀吉とは側室的な存在であったとされるが定かではない。
名前
確かな史料には尊称としての「大方殿」、院号の「円融院」が知られている。
実名については従来「お鮮」「お福(ふく)」「太万」など諸説があった。
「お鮮」は後述する「法鮮」銘五輪塔の法名からの連想で、また「太万」は貴人の母の尊称である「大方」の誤記から生じたものと考えられる。
残る「お福(ふく)」は文禄2年、朝鮮へ出陣中であった宇喜多秀家の釜山帰陣を報じた豊臣秀吉書状(葉上文書)の宛名が「ふく」であることを根拠とするようである。
が、宛名がただ「ふく」とのみあることは、書札礼法上からみて秀家の母とするには不審であるとの指摘がなされており、今のところ実名は不明とするほかない。
一説に号とされる「備前殿」の称も確かなものとはいえないようである。
生年
従来から推測に基づく様々な見解が提出されてきた。
しかし近年、吉田兼見の日記「兼見卿記」の記事から天文18年(1549)にほぼ確定したといえる。
出自
三浦氏や鷹取氏、船津氏など諸説がある。
経歴
1559年ごろに美作国高田城主、三浦貞勝に嫁いだとされる。
1565年、夫・貞勝が三村家親に攻められ自刃。
その間に生まれた嫡子・桃寿丸と共に落ち延びたのち、備前国沼城主、宇喜多直家と再婚。
1572年、のちの五大老の一人となる宇喜多秀家を出産した。
文禄3年の没年および「法鮮尼」の法名について
円融院は文禄3年に没し、法鮮尼と呼ばれたとの説が広く普及しているが、これは「法鮮」銘五輪塔(岡山市徳吉町)や某寺の過去帳に法鮮を「宇喜多氏御前」とすることに基づくものである。
しかし、円融院が慶長5年以降も生存していることは、自筆書状(焼失、備前難波文書)からも以前から明らかになっている。
そこで同塔を生前の逆修墓とする見解もあるが、これも当時のイエズス会士の書簡によると、この頃宇喜多左京亮の室が岡山で病死したとあり、時期や「宇喜多氏御前」との名義から、この人物に比定するのが妥当との見解が近年出されるに至っている。