前田知好 (MAEDA Tomoyoshi)

前田 知好(まえだ ともよし、天正18年(1590年) - 寛永5年6月23日 (旧暦)(1628年7月24日))は江戸時代の武将、前田利家の三男。
母は利家側室の在(金晴院)。
初名は利包。
その後、知好と改名。
通称修理。
出家後は、有庵と号す。
子女は前田好次、前田知辰、前田辰正。

慶長2年(1597年)に出家し、石動山合戦後天平寺に入り、伽那院と号して別当職となり、同9年(1604年)還俗。
同15年(1610年)伯父の前田安勝の子前田利好が没すると、無嗣のため名跡を継いで、七尾小丸山城主(七尾城代)となった。
そして、大坂の役に従軍する。
元和 (日本)2年(1616年)、前田利常が兄の前田利長の遺言を守らず、優遇されなかったことを憂い、剃髪し有庵と号し、京の鞍馬山真勝院に隠棲した。
寛永4年4月、近江国宗沢寺に移る。
寛永5年(1628年)、利常は前田利孝を使者に説得に了承して金沢に向かったが、近江国の道中で病となり、引き返して没する。
享年39。
法名、大巖院殿有庵宗無大居士。

なお、小丸山城は、一国一城令により廃城。
城代の仕事は、小丸山地内に設けられた七尾町奉行に引き継がれた。

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