前田秀以 (MAEDA Hidemochi)
前田 秀以(まえだ ひでもち)は、安土桃山時代の武将。
キリシタン武将でもある。
天正4年(1576年)、織田信長の家臣・前田玄以の長男として生まれる。
父が豊臣秀吉に仕えると共に秀吉に仕え、羽柴姓を与えられた。
父が京都所司代としてキリシタンを弾圧・保護することが多かったため、その影響からキリシタンとなり、文禄4年(1595年)には正式に洗礼を受けてパウロという洗礼名を賜った。
慶長元年(1596年)、秀吉の命令でキリシタンが弾圧されることになると、父の玄以も消極的ながら秀吉の命令に従って畿内のキリシタンを弾圧した。
しかし秀以は密かにキリシタンを匿ったと言われている。
また、父から家督を譲られたという説があるが、父の玄以は秀吉死去の寸前に五奉行として豊臣政権に参与していることから、これは考えにくい。
前田家の長男がキリシタンであっては改易されかねないことを危惧した父・玄以は秀以に棄教するように促した。
しかし秀以はこれに応じず、弟の茂勝に家督相続権を譲って前田家と離縁した。
一説に玄以の怒りに触れて追放されたといわれる。
慶長6年(1601年)閏11月6日に父に先立って死去(26歳没)。
一説に父の命令で自害に追い込まれたとも、殺害されたともいわれる。
弟の茂勝とは仲が良かったらしく、兄の葬儀に際してはキリスト教式の葬礼を行なったとされる。