前田茂勝 (MAEDA Shigekatsu)
前田 茂勝(まえだ しげかつ))は、江戸時代前期の大名。
丹波亀山藩主のち丹波国八上藩主。
豊臣氏の五奉行であった前田玄以の次男。
官位は従五位下、主膳正。
通称は彦四郎。
文禄4年(1595年)、キリシタンとなる。
洗礼名はコンスタンチノ。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して東軍細川幽斎が守る丹後国田辺城 (丹後国)を攻め、開城の使者も務めた。
だが、戦後に父が持っていた朝廷とのパイプなどもあって、所領を安堵された。
慶長7年(1602年)、父・玄以が死去したために家督を継ぐ。
そして丹波亀山藩から丹波八上藩に移封された。
しかしキリシタンとして熱心な信仰を行なっていたために幕府に危険視され、また茂勝自身も藩政を省みずに放蕩に耽り、終いには発狂して諫言をする家臣・尾池清左衛門父子を殺害、多くの家臣を切腹させた為に遂に幕府から改易を申し渡され、堀尾忠晴に身柄を預けられた。
改易後はキリシタンとして、真面目な生活を送ったと言われている。
元和7年(1621年)に死去。
弟の正勝の系統は、1400石の旗本として存続している。
逸話
近江国水口で宿の主と乱闘して取り押さえられ引き渡され、幕府の代官が茂勝だとわかり驚いたという逸話も残されている。