劉仁軌 (Ryu Jinki)

劉 仁軌(りゅう じんき、ピンインLiú Rénguĭ、602年 - 685年3月2日)は、中国唐代の武将である。
字は正則。
楽城文献公。
開封尉氏出身。

略歴
隋の仁寿2年(602年)に生まれる。
若い頃は貧しく、学問好きであったという。
唐の建国後、武徳年間に息州参軍となり、のち陳倉尉に転ずる。
折衝都尉の魯寧なる者が横暴であったため、これを鞭打って殺害した。
太宗 (唐)に詰問されると、「臣(私)が辱められたために殺しました」と臆せずに答えた。
このことから、かえって太宗に気に入られ、咸陽の丞に任ぜられた。
給事中にまで昇るが、ために権臣の李義府に憎まれるようになり、青州刺史に左遷される。

さらに顕慶5年(660年)の遼東半島征伐において漕運に失敗した罪を着せられ、59歳にして一兵卒に落とされた。
この年、蘇定方率いる唐軍が百済の都泗ビを攻め、配下の劉仁願が義慈王を捕らえる功績を挙げ、百済を滅亡させる。
しかし、翌龍朔元(661年)百済の遺臣鬼室福信らが泗&27800城の奪還を試み、守将の劉仁願を包囲した。
この際、劉仁軌は自ら志願して検校帯方州刺史を拝して援軍に赴く。

龍朔3年(663年)9月、百済残党を支援する倭(日本)の水軍を白村江で迎撃し、400余隻の軍船を焼き払って大勝する(白村江の戦い)。
さらに百済故地の諸城を平定し、屯田を営み庶民を安心させたという。
麟徳2年(665年)高宗 (唐)が泰山で封禅を行った際には、新羅・百済・耽羅・倭4国の首領を率いて参加した。
大司憲を拝し、右相兼検校太子左中護に進み、楽城県男に封ぜられた。

総章元年(668年)には熊津安撫大使兼&28031江道総管となる。
李勣(李世勣)に従って高句麗を平定。
金紫光禄大夫を拝し、太子左庶子同中書門下三品に進んだ。
咸亨5年(674年、上元 (唐高宗)元年)には鶏林道大総管に任ぜられた。
新羅の文武王を討って大勝し、翌年には僕射となって朝政に参画した。
嗣聖2年1月22日 (旧暦)(685年3月2日)文昌左相同固閣鸞台三品として在職中に没した。
享年84。
死後、開府儀同三司并州大都督を贈られ、高宗の陵墓である乾陵に陪葬された。

[English Translation]