加藤清正 (KATO Kiyomasa)
加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名である。
肥後国熊本藩初代藩主。
豊臣秀吉の家臣として仕え、各地を転戦し武功を挙げ肥後北部を与えられた。
秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後熊本藩主となった。
「賤ヶ岳七本槍」の一人である。
主君秀吉の死後も豊臣家に忠義を尽くしたことが有名。
明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。
秀吉の子飼い
永禄5年(1562年)6月24日、尾張国の鍛冶屋加藤五郎助(清忠)の子として、尾張国愛知郡 (愛知県)中村(現在の名古屋市中村区)に生まれる。
父は清正が幼いときに死去したが、母・伊都が豊臣秀吉の生母である大政所の従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であった。
そのことから血縁関係にあった秀吉に仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられた。
清正は秀吉の遠戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられた。
清正もこれに応え、生涯忠義を尽くし続けた。
豊臣家臣時代
天正10年(1582年)に織田信長が死去すると、清正は秀吉に従って同年の山崎の戦いに参加した。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられた。
天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると同時に従五位、主計頭に叙任する。
天正14年(1586年)からは秀吉の九州征伐に従い、肥後国に入った佐々成政が失政により改易されると肥後の半国のおよそ19万5,000石を与えられ、熊本城を居城とした。
このとき、肥後半国と讃岐国とどちらかを選べと言われ、肥後を選んだという逸話がある。
肥後における治績は良好で、田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に当てるなど、世に知られた治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮した。
文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、李氏朝鮮へ出兵する。
文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房を傘下に置いた。
二番隊は一番隊の小西行長とは別路の先鋒であった。
4月17日の釜山上陸後は小西行長と漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城した。
漢城攻略後は小西行長の一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上し臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。
その後黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定、朝鮮二王子(臨海君・順和君)を生捕りにした。
更には朝鮮の国境豆満江を越えてオランカイ(兀良哈・現在の中国東北部)へ進攻するなど数々の武功を挙げた。
文禄2年(1593年)6月の第二次晋州城の戦いで加藤軍は北面からの攻城を担当し、亀甲車を作り、配下の森本儀太夫、飯田覚兵衛が、黒田長政配下の後藤基次と一番乗りを競い城を陥落させた。
しかし交渉材料に朝鮮二王子を返還してしまうなど、慶長元年(1596年)、石田三成と明との和睦をめぐって意見の対立が生じ、それが元で秀吉の勘気を受けて一時は京都に戻される。
小西行長との対立も深刻化していた。
京から再び朝鮮に渡海する際、小西行長は明・朝鮮軍側に清正の上陸予想地点をに密かに知らせ、清正を討たせようとしている。
小西行長はこの件で明・朝鮮側から一定の信頼を得たが、行長はこれを逆手に取り、後に明・朝鮮軍をおびき出しだし打撃を与えている。
慶長2年(1597年)からの慶長の役でも再び小西行長とは別路の先鋒となり、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させると、全羅道の道都全州を占領。
次に忠清道鎮川まで進出後に西生浦倭城に駐屯した。
日本側では西生浦倭城の東方に新たに浅野幸長や毛利家家臣・宍戸元続によって清正が縄張りをした蔚山倭城を築城し、完成後清正を守備につける予定(西生浦倭城には黒田長政を駐屯予定)であった。
しかし、慶長2年(1597年)12月に完成間近の蔚山倭城への明の大軍が攻め寄せて蔚山城の戦いが始まると清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城した。
未完成で水も食糧も乏しい状況で明・朝鮮の大軍を防ぎきり、毛利秀元や黒田長政の援軍の到着まで城を守り抜いた。
慶長3年(1598年)9月にも再び蔚山倭城は攻撃を受けるがこれも撃退に成功する。
清正は朝鮮の民衆から「犬、鬼(幽霊)上官」と恐れられた。
なお、朝鮮出兵中にトラ退治をしたという伝承が残り、そこから虎拳という遊びの元になった。
セロリを日本に持ち込んだとされており、セロリの異名の一つが「清正人参」である。
関ヶ原の戦いから江戸時代
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶った。
そして慶長4年(1599年)3月に前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長ら6将と共に石田三成暗殺未遂事件を起こした。
この計画が失敗すると、さらに家康への接近を強めた。
慶長5年(1600年)に三成が家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いでは九州に留まり、黒田孝高と共に家康ら東軍に協力して行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを開城、調略し、九州の西軍勢力を次々と破った。
戦後の論功行賞で、肥後の行長旧領を与えられ52万石の大名となる。
なお、行長が居城とした宇土城は慶長17年(1612年)に破却されている。
慶長10年(1605年)、従五位、侍従・肥後守に叙任される。
慶長15年(1610年)、徳川氏による尾張国・名古屋城の普請に協力した。
慶長16年(1611年)3月には二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋したが、帰国途中の船内で発病し、6月24日に熊本で死去した。
享年50(満49歳没)。
墓所は熊本市花園の発星山本妙寺の浄池廟、また山形県鶴岡市丸岡の金峰山天澤寺。
さらに東京都港区白金台の最正山覚林寺(清正公)に位牌。
なおまた、東京都大田区の長栄山大国院本門寺(池上本門寺)に供養塔。
奉斎神社は熊本市本丸鎮座の加藤神社。
清正の死後、家督は子の加藤忠広が継いだが、寛永9年(1632年)、忠広は幕府の命により改易になった。
理由は諸説あるが、加藤家が豊臣氏恩顧の最有力大名だったためと警戒されたとも言われている。
人物
清正は一般に智勇兼備の名将として知られているが、同時に藤堂高虎と並ぶ築城の名手としても知られ熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わった。
また飯田覚兵衛、大木土佐らと穴太衆を用いて領内の治水事業にも意欲的に取り組んだ。
この結果、熊本県内には現在も清正による遺構が多く存在する。
その土木技術は非常に優れており400年後の現在も実用として使われている遺構も少なくない。
このとき清正は莫大な人手をまかなうため男女の別なく動員した。
しかし、給金を払い必要以上の労役を課すことなく、事業の多くを農閑期に行う事によって農事に割く時間を確保したという。
清正は熱心な日蓮宗の信徒でもあり、領内に本妙寺をはじめとする日蓮宗の寺を数多く創設した。
そのほか、いわゆる「三振法(清正当時の呼称ではない)」を取り入れたことで知られる。
これは武士のみが対象であったが、軽微な罪や式典で粗相を3回起こすと切腹を申し付けられるものであった。
武将としては福島正則とともに豊臣氏配下の最有力の武将の一人で、正則とは親しかったとされる。
石田三成とは豊臣政権下で文治派、武断派が形成されるにつれて関係が悪化し、小西行長とは朝鮮出兵の際に先鋒をめぐって争ったことや互いの領地が隣り合わせであったため常に境界線をめぐって争ったとも言われている。
体格は非常に大きく、6尺3寸(約191センチメートル)の大男だったと言われている。
だが実は5尺3寸(約161cm)にも満たない身長であったが、かぶる兜を長くして全体像を高く見せる事によって相手に威圧感を与えようとしていたという説もある。
熊本県(旧熊本藩)においては、「清正公(せいしょこ)さん」として現在も種々の史跡や祭りなどにも取りあげられているが、当時の肥後人の清正への崇敬も強かった。
これはほとんどの大名が単に統治しただけとは対照的に、清正の熊本での事業ことによる。
清正没後にほどなく加藤氏清正系加藤氏は改易されるが、肥後人の清正崇拝は細川氏肥後細川家(豊前小倉藩、肥後熊本藩主家)が豊前国小倉藩から転封してくる際にも衰えなかった。
その人気を慮って、細川氏は清正の霊位を先頭にかざして入部し、藩主細川忠利は熊本城本丸に登り、清正の祀る廟所がある本妙寺 (熊本市)へ拝跪して「あなたのお城を預からせていただきます」と異例の所作をしたと云われている。
清正の熊本での事業
清正が肥後国を治めていたのは、天正15年(1587年)から慶長16年(1611年)の期間だが、朝鮮出兵等もあって実際に熊本に腰を据えていた期間は、実質延べ15年程である。
清正以前の肥後は有力大名が現われず国人が割拠する時代が続き、佐々成政でさえも収拾できず荒廃していた。
そんな中、清正は得意とする治水等の土木技術による生産量の増強を推し進めた。
これらは主に農閑期に進められ、男女を問わず徴用されたが、これは一種の公共工事であり、給金も支払われた為みな喜んで協力したという。
「隈本(隅本とも)」という地名を「熊本」と改名した人は清正である。
「白川・坪井川大改修」以前は白川 (熊本県)と坪井川 (熊本県)は現在の熊本市役所付近で合流していたが、石塘を造り現在の流路に変更。
熊本4大河川改修。
菊池川の付替、緑川の鵜の瀬堰、球磨川の遥拝堰、白川に於ける各種改修等。
熊本平野・八代平野の干拓と堤防の整備。
白川水系の主に熊本平野への灌漑事業に於ける、非常に実験的な用水技術(馬場楠井手)等。
なお、現在の堀川 (熊本県)は加藤忠広が着工し、細川忠利で完了。
白川と坪井川を結ぶ農業用水路である。
清正の亡き後
細川家による統治が始まるも、人民の人気は遂に「せいしょこさん」=清正公を超える事はなかった。
それは今の、官と民との逆転現象と言えよう。
豪農は開拓し富を蓄え新規開拓に励む一方、細川氏は「肥後の貧乏な殿様」と蔑まれ、踏み倒した証文も少なくないという。
名門細川氏は遂に肥後に於いて、強権を振るう事無く、前任者の亡霊におびやかし続けられた。
一方で、通潤橋のような農民発議での開発が着々と進行していった。
逸話
子供のころからの竹馬の友として森本儀太夫と飯田覚兵衛がいた。
ある日、剣の試合をして勝ったものが主君になり、負けたものが家来になるという約束をした。
清正が勝ち、その約束は守られ、二人は清正の両腕として信頼される主従関係を結び続けた。
口の中に拳を入れる事ができたという逸話がある。
その話を聞いた新選組局長・近藤勇も憧れていた清正にあやかり、真似をして拳を口に入れていたという。
平時でも常に腰に米3升と味噌、銀銭300文を入れていた。
ある時親友の福島正則が「それでは腰が重いだろうが」と述べた。
「わしだって軽くしたい。だが、わしがこうしていれば家臣も見習い、常に戦時の備えを怠らないだろう」と答えたという。
また、平時に腰兵糧をつけるのを忘れた小姓を怠慢であるとして免職にしたという。
清正は朝鮮出兵で三成と対立し、それが原因で秀吉から京に召還された後、伏見に蟄居させられていた。
しかし慶長元年(1596年)、伏見大地震が起こって秀吉がいた伏見城が倒壊したとき、清正は300人の手勢を率いていち早く秀吉のもとに駆けつけ、警護を務めたと言われている。
蟄居身分でありながら、これは秀吉の許しもなく駆けつけたものであり一つ間違えれば切腹となるところだったが、秀吉は清正の忠義を賞賛して朝鮮での罪を許したという。
これにより、清正は「地震加藤」と称された。
清正は豊臣氏への忠義を終生忘れなかったが、家康を恐れその天下も認めていた。
朋友の正則が家康の子・徳川義直が入る尾張名古屋城の普請を命じられたとき、「大御所の息子の城普請まで手伝わなければならないのか」と愚痴をこぼした。
これに対して清正は「嫌なら領国に帰って戦準備をしろ」と告げたという。
徳川時代になって戦国の気風が謀反の心として警戒されるようになった。
そして、大名たちに髭を剃ることが流行りだしたとき家康は家臣に命じて清正に聞きに行かせた。
貴殿も剃られてはいかがかと勧められたのに対して「鎧の頬あてに髭があたる感覚が心地よいので」と断ったことから、骨のある武将との評判がたった。
晩年は豊臣家への恩義と自家の徳川政権での存続に心を悩ませた。
そのためか、論語に朱で書き込みをして読み込むほどであった。
徳川と豊臣の雲行きが怪しいなか、大坂からの船旅の中、清正の飼っていた猿が真似をして彼の論語の本に朱筆で落書きをしたのを見て「お前も聖人の教えが知りたいか」と嘆じたという。
清正が肥後北部24万石を治めていた頃、小西行長の領地・天草で豪族の反乱が起きた。
その援軍に向かった時、反乱軍でも武勇知られた木山弾正という豪傑と一騎打ちになった。
相手は弓の使い手で、矢を射ようとしたために清正は「一騎打ちなれば、正々堂々打ち物(太刀)で勝負」と声を掛けて、手にしていた槍をその場で投げ捨てた。
これを見た弾正も弓を捨てたところ、清正はすかさず槍を拾いあげて突きかかり、討ち取ったという。
同じくこの反乱の際、反乱勢の籠もる志岐城に和平の使者を送った。
志岐城側が出迎えの衆を寄越すと、これに突然襲い掛かって皆殺しにし、してやったりとして陣を敷いたという。
木山弾正の遺児は横手五郎と名乗り怪力が自慢であったが、熊本城築城の人夫となり敵討ちの機会をねらっていた。
しかし、これに気付いた清正によって城内の井戸の中の作業をしているときに石・砂を投げ込まれ生き埋めにされたという。
しかしこの逸話には諸説あり、清正に認められ、忠実な家臣になったと言う逸話もある。
彼が運んだと伝わる「首掛け石」という凹型の巨石が城内にある。
死因
清正の死因は『当代記』によれば腎虚(花柳病)とされているが、唐瘡(梅毒)説や家康またはその一派による毒殺説もある。
また清正の死から2年後の慶長18年(1613年)、豊臣氏恩顧の最有力大名であった浅野幸長も同じく花柳病で死去している。
清正・幸長の両名は豊臣氏恩顧の有力大名として家康から警戒されていたのは事実である。
その両名が同じ病気でしかも急死したため、家康による毒殺ではないかとの憶測も流れた。
暗殺説の中でも二条城会見での料理による毒殺、毒饅頭による毒殺など様々にある。
根強い毒殺説を題材としたのが池波正太郎の『火の国の城』である。
また死因はハンセン病(癩病、ハンセン病)であったとする説もあり、罹患者の多かった時代には清正を祀る加藤神社に平癒を願う参詣者が多かったという。
ちなみに熊本市の本妙寺 (熊本市)は明治20年代まで梅毒やハンセン病で不具になってしまった患者達で混雑する事が珍しくなかった。
参拝客達に哀れみを乞い、この寺に墓がある清正を一種の神と崇め、病を治して貰おうという信仰があったからである。
しかしこの現象は全国の寺社で起こっていたことであり、信憑性は薄い。
日本のハンセン病の歴史において大きな足跡を残した一人、イギリス国教会の婦人伝道師だったハンナ・リデルはこの寺で見た患者達の群を見て甚大なショックを受け、その生涯を彼らの救済に傾けた。
手話単語のモチーフとして
日本手話における「加藤」の手話単語の一つに「両手で槍を持って前に突き出す」動作を真似たものがある。
これは加藤清正の虎退治の古事にちなんだものと言われる(他に指文字「か」+植物の藤を表す手話単語を用いる場合や、タレントの加藤茶にちなんでつけ髭を指で真似る手話単語など)。