北条政村 (HOJO Masamura)
北条 政村(ほうじょう まさむら)は、鎌倉時代前期から中期にかけての北条氏の一門。
父は鎌倉幕府第2代執権北条義時。
母は継室の伊賀の方。
幼少の得宗家北条時宗の代理として第7代執権(在職:1264年 - 1268年)に就任した。
辞任後も連署を務めて元寇の対処にあたり、一門の宿老として嫡流の得宗家を支えた。
略歴
三浦義村を烏帽子親に元服し、政村と名乗る。
1224年、20歳の時に父義時が急逝すると、母伊賀の方が政村を執権にする陰謀を企てたという伊賀氏の変が起こる。
事は未遂に終わり、伊賀の方は尼将軍北条政子の命によって伊豆国へ流罪となる。
しかし、政村は兄泰時の計らいで累は及ばなかった。
1239年に評定衆となり、翌年に筆頭となる。
1249年に引付頭人、1256年に兄北条重時が出家し引退した為、兄に代わり連署になる。
1264年7月、兄重時の次男で6代執権北条長時が病で出家した為、8月に7代執権に就任。
連署北条時宗らに補佐され、幕政中枢の人物として人事や宗尊親王の京都更迭などの決定に関わっていると考えられている。
文永5年(1268年)1月に蒙古国書が到来すると、同年3月に執権職を北条時宗に譲り、再び連署として補佐、侍所別当も務める。
文永10年(1273年)5月に常葉上人を戒師に出家し、常盤院覚崇と号す。
同月に69歳で死去。
和歌・典礼に精通した教養人であり、京都の公家衆からも「東方の遺老」と敬愛され、その死を惜しまれた。
連署は兄重時の息子北条義政が引き継いだ。
なお、執権経験者が連署を務めた例は他に無い。
経歴
※日付=旧暦
寛喜2年(1230年)1月13日、常陸大掾に任官。
閏1月4日、式部少丞に転任。
10月15日、従五位下に叙位。
式部少丞如元。
嘉禎2年(1236年)3月4日、右馬助に遷任。
4月14日、右馬権頭に転任。
嘉禎3年(1237年)9月15日、従五位上に昇叙。
右馬権頭如元。
嘉禎4年(1238年)8月28日、正五位下に昇叙。
右馬権頭如元。
延応元年(1239年)、幕府の評定衆と就る。
寛元2年(1244年)6月22日、従四位下に昇叙。
右馬権頭如元。
建長2年(1249年)、引付頭人を兼務。
建長8年(1256年)3月30日、連署と就る。
4月5日、陸奥守に遷任。
正嘉元年(1257年)6月12日、相模守に遷任。
文永元年(1264年)8月11日、執権と就る。
文永2年(1265年)2月21日、従四位上に昇叙。
相模守如元。
3月28日、左京権大夫に転任。
文永3年(1266年)3月2日、正四位下に昇叙。
左京権大夫如元。
文永5年(1268年)3月5日、連署と就り、侍所別当を兼務。
文永10年(1273年)5月18日、出家。
常盤院覚崇を称す。
5月27日卒去。
享年69。
評価
『大日本史』においては、政村は沈黙温雅な人物と評価されている。
明治の歴史学者田口卯吉は、元寇回避の功績を執権の時宗に帰する評価を批判し、年齢や人脈などの点から日蒙交渉は政村が主導していたと主張する。
しかし、三浦周行はこれに反証している。
また、渡辺晴美は『北条政村の研究』において、政村を主題とした本格的研究を発表。