北条時輔 (HOJO Tokisuke)

北条 時輔(ほうじょう ときすけ)は、鎌倉幕府第5代執権・北条時頼の長男(庶子)で、鎌倉時代中期の六波羅探題南方である。
異母弟に第8代執権・北条時宗らがいる。
烏帽子親は足利頼氏。
征夷大将軍宗尊親王の側近として将軍御所に仕える。

生涯

側室の子である為、父・時頼から序列三位として正室の子である弟の時宗や宗政よりも格下に置かれて厳しく冷遇された。
文永元年(1264年)六波羅探題に命じられて京都に出向する。
このとき、六波羅探題南方は佐介流北条時盛以来22年ぶりに復活した。
庶長子であることから鎌倉より遠ざけられたとも言われる。
なお、歴任した役職については、他の北条一門と比べてそれほど見劣りするものではない。
このことから、一門内部での地位はそれほど低くなかった可能性はある。

いずれにしろ、時宗からすれば扱いの難しい存在であったものと察せられる。

文永5年(1268年)に時宗が執権に就任した際には反得宗派の1人として不満を示し、元 (王朝)からの国書が届いた際にも返答に関して幕府と対立する。
文永9年(1272年)、北条時宗失脚計画が露見して北条時章・北条教時兄弟が二月騒動で討たれると時輔も追討対象となり、時宗の命を受けた六波羅探題北条義宗によって攻められて戦死したとされる。
これが事実ならば、享年25。
ただし、京都にいた時輔がこの計画に関わっていたかどうかは不明である。

その一方で、京都を脱出して吉野へ逃れたという生存説も当時から存在しており(彼の逃亡・生存を裏付けるかのように、弘安7年(1284年)に時輔父子を捕縛するよう命ずる関東御教書が発給されている)、真相は未だにはっきりしていない。
子供は父の死後(もしくは消息途絶後)も諸国を流浪していたとみられる。
時宗の死から6年後の正応3年(1290年)11月に次男とされる人物が三浦頼盛と謀反を共謀したとして六波羅探題に捕縛され、拷問を受けて斬首された。
名は伝えられていない。
長男については消息不明のままである。

なお、2001年に放送された日本放送協会大河ドラマ『北条時宗 (NHK大河ドラマ)』では、吉野へ逃れた後さらに高麗へ渡り、モンゴル帝国軍の九州攻撃作戦の立案に関与したというストーリーが描かれた。
しかし、これは前述の逃亡・生存説を大幅にデフォルメした創作である。

官職および位階等の履歴

1264年(文永元年)10月、幕府の六波羅探題南方に赴任。
没年月日まで在任。

1265年(文永2年)4月11日、従五位下に叙し、式部少丞に任官。
(これにより式部大夫とも式部大夫丞とも称される。)
(よって、古文書の中には式部大輔の表記があるが明らかに過誤)

[English Translation]