北条泰時 (HOJO Yasutoki)

北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉時代前期の武将。
鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。
北条氏の嫡流得宗家の2代当主。
鎌倉幕府第3代執権である。
(在任:元仁元年 - 仁治3年(1224年 - 1242年))

出生から承久の乱まで

寿永2年(1183年)、北条義時の長男として生まれる。
幼名は金剛。
母は側室の阿波局で、御所の女房と記されるのみで出自は不明。
父義時は21歳、祖父北条時政ら北条氏一族と共に源頼朝の挙兵に従い鎌倉入りして4年目の頃である。

建久5年(1194年)2月2日、13歳で元服する。
幕府の初代将軍となった頼朝が烏帽子親となり、頼朝の頼を賜って、頼時と名乗る。
時期は不明だが、のちに泰時に改名した。
頼朝の命により元服と同時に三浦義澄の孫娘との婚約が決められ、8年後の建仁2年(1202年)8月23日に三浦義村の娘(矢部禅尼)を正室に迎える。
翌年嫡男北条時氏が生まれるが、後に三浦の娘とは離別し、安保実員の娘を正室に迎えている。

建暦元年(1211年)に修理亮に補任する。
この時点で北条氏の嫡男は異母弟で正室の子である北条朝時であったが、朝時が第3代将軍・源実朝の怒りを買って失脚したため、庶子であった泰時が嫡男とされた。
建暦3年(1213年)の和田合戦では父・義時と共に和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥国遠田郡の地頭職に任じられた。

建保6年(1218年)には父から侍所の別当に任じられる。
承久元年(1219年)には従五位上・駿河守に叙位・任官される。

承久3年(1221年)の承久の乱では、幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽天皇方の倒幕軍を破って京へ入った。
戦後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任し、同じく南方には共に大将軍として上洛した叔父の北条時房が就任した。
以降京に留まって朝廷の監視、乱後の処理や畿内近国以西の御家人武士の統括にあたった。

第3代執権

貞応3年(1224年)6月、父・義時が急死したため、鎌倉に戻ると義母の伊賀の方が実子の北条政村を次期執権に擁立しようとした伊賀氏の変が起こる。
伯母の尼将軍北条政子の命によって伊賀の方らは追放され、泰時が家督を相続し、42歳で第3代執権となった。
伊賀の方は幽閉の身となったが、異母弟の政村や事件に関わった有力御家人の三浦義村は不問に付せられ、流罪となった伊賀光宗も間もなく許されて復帰している。
義時の遺領配分に際して泰時は弟妹に多く与え、自分はごく僅かな分しか取らなかった。
政子はこれに反対して取り分を多くし、弟たちを統制させようとしたが、泰時は「自分は執権の身ですから」として辞退したという。
伊賀事件の寛大な措置、弟妹への融和策は当時の泰時の立場の弱さ、北条氏の幕府における権力の不安定さの現れでもあった。
泰時は新たに北条氏嫡流家の家政を司る「家令」を置き、信任厚い家臣の尾藤景綱を任命し、他の一族と異なる嫡流家の立場を明らかにした。
これが後の得宗・内管領の前身となる。

翌年嘉禄元年(1225年)6月に有力幕臣・大江広元が没し、7月には政子が世を去って幕府は続けて大要人を失った。
泰時はこの難局にあたり、頼朝から政子にいたる専制体制に代わり、集団指導制、合議政治を打ち出した。
叔父時房を京都から呼び戻し、泰時と並ぶ執権の地位に迎え「両執権」と呼ばれる複数執権体制をとり、次位のものはのちに「連署」と呼ばれるようになる。
泰時は続いて三浦義村ら有力御家人代表と、中原師員ら幕府事務官僚などからなる合計11人の評定衆を選んで政所に出仕させ、これに執権2人を加えた13人の「評定」会議を新設して幕府の最高機関とし、政策や人事の決定、訴訟の採決、法令の立法などを行った。

3代将軍源実朝暗殺後に新たな鎌倉殿として京から迎えられ、8歳となっていた三寅を元服させ、藤原頼経と名乗らせた。
頼経は嘉禄3年(1226年)、正式に征夷大将軍となる(実朝暗殺以降6年余、幕府は征夷大将軍不在であった)。
頼朝以来大倉御所にあった幕府の御所に代わり、鶴岡八幡宮の南、若宮大路の東側である宇都宮辻子に幕府を新造する。
頼経がここに移転し、その翌日に評定衆による最初の評議が行われ、以後はすべて賞罰は泰時自身で決定する旨を宣言した。
この幕府移転は規模こそ小さいもののいわば遷都であり、将軍独裁時代からの心機一転を図り、合議的な執権政治を発足させる象徴的な出来事であった。

一方、家庭内では嘉禄3年(1227年)6月18日に16歳の次男北条時実が家臣によって殺害されている。
3年後の寛喜2年(1230年)6月18日には長男の北条時氏が病のため28歳で死去し、その1ヶ月後の7月に三浦泰村に嫁いだ娘が出産するも子は10日余りで亡くなり、娘自身も産後の肥立ちが悪く8月4日に25歳で死去するなど、立て続けに不幸に見舞われた。

御成敗式目

承久の乱以降、新たに任命された地頭の行動や収入を巡って各地で盛んに紛争が起きており、また集団指導体制を行うにあたり抽象的指導理念が必要となった。
紛争解決のためには頼朝時代の「先例」を基準としたが、先例にも限りがあり、また多くが以前とは条件が変化していた。
泰時は京都の法律家に依頼して律令などの貴族の法の要点を書き出してもらい、毎朝熱心に勉強した。
泰時は「道理」(武士社会の健全な常識)を基準とし、先例を取り入れながらより統一的な武士社会の基本となる「法典」の必要性を考えるようになり、評定衆の意見も同様であった。

泰時を中心とした評定衆たちが案を練って編集を進め、貞永元年(1232年)8月、全51ヶ条からなる幕府の新しい基本法典が完成した。
はじめはただ『式条』『式目』と呼ばれ、裁判の基準としての意味で『御成敗式目』と呼ばれるようになる。
完成に当たって泰時は六波羅探題として京都にあった弟の北条重時に送った2通の手紙の中で、式目の目的について次のように書いている。

「多くの裁判事件で同じような訴えでも強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、身分の高下にかかわらず、えこひいき無く公正な裁判をする基準として作ったのがこの式目である。
京都辺りでは『ものも知らぬあずまえびすどもが何を言うか』と笑う人があるかも知れないし、またその規準としてはすでに立派な律令があるではないかと反問されるかもしれない。
しかし、田舎では律令の法に通じている者など万人に一人もいないのが実情である。
こんな状態なのに律令の規定を適用して処罰したりするのは、まるで獣を罠にかけるようなものだ。
この『式目』は漢字も知らぬこうした地方武士のために作られた法律であり、従者は主人に忠を尽くし、子は親に孝をつくすように、人の心の正直を尊び、曲がったのを捨てて、土民が安心して暮らせるように、というごく平凡な『道理』に基づいたものなのだ。」

『御成敗式目』は日本における最初の武家法典であり、日本の法の歴史上画期的なものとなった。

晩年

嘉禎元年(1235年)、石清水宮と興福寺が争い、これに比叡山延暦寺も巻き込んだ大規模な寺社争いが起こると、強権を発して寺社勢力を押さえつけた。
興福寺、延暦寺をはじめとする僧兵の跳梁は、院政期以来朝廷が対策に苦しんだところであったが、幕府が全面に乗り出して僧兵の不当な要求には断固武力で鎮圧するという方針がとられた。

仁治3年(1242年)に四条天皇が崩御したため、順徳天皇の皇子・忠成王が新たな天皇として擁立されようとしていたが、泰時は父の順徳天皇がかつて承久の乱を主導した首謀者の一人であることからこれに強く反対し、忠成王即位が実現するならば退位を強行させるという態度をとり、貴族達の不満と反対を押し切って後嵯峨天皇を新たな天皇として即位させた。
新天皇の外戚(叔父)である土御門定通は泰時の妹を妻としていたため、以後泰時は定通を通じて朝廷内部にも勢力を浸透させていくことになる。

朝廷の天皇問題の頃から過労が原因で倒れていた泰時は、赤痢を併発させて体調が悪化したため、出家して観阿と号し、1ヶ月半後の仁治3年(1242年) 6月15日に死去した。
享年60。

第4代執権には早世した時氏の長男である孫の北条経時が就任した。

後白河天皇、後鳥羽天皇院政が強力であった承久の乱以前の幕府は御家人の権益を擁護して旧勢力と対抗する立場あったが、院政の実質的機能が失われた乱以降は、幕府は貴族・寺社等の旧勢力と、地頭・御家人勢力との均衡の上に立って、両者の対立を調停する権力として固定した。
父義時の偉業を継いで北条執権体制を軌道に乗せた泰時は、名執権と称えられる。

人物・逸話

泰時は人格的にも優れ、武家や公家の双方からの人望が厚かったと肯定的評価をされる傾向にある。
同時代では、参議・広橋経光などが古代中国の聖人君子に例えて賞賛している。

泰時の政治は当時の鎌倉武士の質実剛健な理想を体現するとされ、彼のすぐれた人格を示すエピソードは多く伝えられる。
沙石集は泰時を「まことの賢人である。民の嘆きを自分の嘆きとし、万人の父母のような人である」と評し、裁判の際には「道理、道理」と繰り返し、道理に適った話を聞けば「道理ほどに面白きものはない」と言って感動して涙まで流すと伝えている

例えば次のような話が沙石集にある。

九州に忠勤の若い武士があった。
彼の父は困窮のため所領を売り払う破目に陥った。
彼は苦心してそれを買い戻し父に返してやった。
しかし父は彼に所領を与えず、どういったわけか全て彼の弟に与えてしまったため、兄弟の間で争論があり、泰時の下で裁判となった。
立ち会う泰時は、初め兄の方を勝たせたいと思った。
しかし、弟は正式の手続きを経ており、御成敗式目に照らすと弟が明らかに有利である。
泰時は兄に深い同情を寄せながらも弟に勝訴の判決を下さざるを得なかった。
泰時は兄が不憫でならなかったので、目をかけて衣食の世話をしてやった。
兄はある女性と結婚して、非常に貧しく暮らした。
ある時、九州に領主の欠けた土地が見つかったので、泰時はこれを兄に与えた。
兄は「この2,3年妻にわびしい思いばかりさせておりますので、拝領地で食事も十分に食べさせ、いたわってやりたいと思います」と感謝を述べた。
泰時は「立身すると苦しい時の妻を忘れてしまう人が世の中には多い。あなたのお考えは実に立派だ」と言って旅用の馬や鞍の世話もしてやった。

ある地頭と領家が争論した時、領家の言い分を聞いた地頭は直ちに「負けました」と言った。
泰時は「見事な負けっぷりだ。明らかな敗訴でも言い訳をするのが普通なのに、自分で敗訴を認めた貴殿は実に立派で正直な人だ。執権として長い間裁判をやってきたが、こんなに嬉しい事は初めてだ」と言って涙ぐんで感動した

源頼家に仕えていた19歳の頃、頼家が蹴鞠に凝って幕政を顧みないことを憂いて諫言したことがある。
寛喜の大飢饉の際、被害の激しかった地域の百姓に関しては税を免除したり、米を支給して多くの民衆を救ったという逸話がある。
この際には民衆を慮って質素を尊び、畳、衣装、烏帽子などの新調を避け、夜は燈火を用いず、酒宴や遊覧を取りやめるなど贅沢を禁止した。
晩年に行った道路工事の際には自ら馬に乗って土石を運んだ事もある。

このように誠実に仕事をこなしたため公家や民衆からも評判がよく、泰時が植えた柳の日陰で休む旅人が泰時に感謝する逸話もある。

しかし一方で近衛経兼などは承久の乱後の朝廷に対する厳正な措置を恨み平安時代後期の平清盛にかさねて悪評を下している。
このような公家の一部の悪感情を反映してか泰時の死に際しては後鳥羽上皇の祟りを噂するものもいた。

鎌倉幕府滅亡後、北条氏に対する評価は皇室に対する処遇を巡る大義名分論を中心に行われ、北条高時などが暗君として評価されているが、泰時は徳政を讃えられる傾向にある。
南北朝時代 (日本)には吉野朝廷方の北畠親房が『神皇正統記』において、江戸時代には武家の専横を批判する新井白石も肯定的評価をしている。
一方で、江戸期の国学振興においては本居宣長や頼山陽などの国学者が泰時を批判するようにもなった。

また鎌倉幕府北条氏による後世の編纂書『吾妻鏡』には、泰時に関する美談が数多く記されているが、中には他人のエピソードを流用している作為も見られる(吾妻鏡得宗家の顕彰参照)。

経歴

※日付は旧暦
建久5年(1194年)、2月2日、元服。

建暦元年(1211年)、9月8日、修理亮に任官。

建保4年(1216年)、3月28日、式部丞に遷任。
12月30日、従五位下に叙位。
式部丞如元。

建保6年(1218年)、讃岐守に転任。

建保7年(1219年)、1月5日、従五位上に昇叙。
讃岐守如元1月22日、駿河守に遷任11月13日、武蔵守に転任。

承久3年(1221年)、6月16日、幕府六波羅探題北方となる。

貞応3年(1224年)、6月17日、六波羅探題退任。
6月28日、執権となる。

貞永元年(1232年)、4月11日、正五位下に昇叙。
武蔵守如元。

嘉禎2年(1236年)、3月4日、従四位下に昇叙。
武蔵守如元。
12月8日、左京権大夫兼任。

嘉禎4年(1238年)、3月18日、従四位上に昇叙。
左京権大夫・武蔵守如元。
4月6日、武蔵守辞任。
12月7日、左京権大夫辞任。

延応元年(1239年)、9月9日、正四位下に昇叙。

仁治3年(1242年)、5月9日、出家。
6月15日、卒。
享年60。
法名常楽寺観阿。
菩提所鎌倉市大船の粟船山常楽寺 (鎌倉市)。

[English Translation]