北畠治房 (KITABATAKE Harufusa)
北畠 治房(きたばたけ はるふさ 1833年2月20日(天保4年1月1日 (旧暦)) - 1921年(大正10年)5月2日)は江戸時代末期の勤皇家、明治時代の司法官。
旧名は平岡鳩平、平岡武夫。
維新後北畠親房の末裔を称し、北畠治房と改名した。
人物
法隆寺附近の商家の次男として誕生。
伴林光平に師事して国学を学び、過激な尊王攘夷思想に傾倒、天誅組が起こると師の伴林に随伴してこれに参加するが、天誅組は鎮圧され、師である伴林も処刑される。
鳩平は追手を逃れて潜伏し、京都や大坂を転転とする。
やがて旧知であった水戸藩士大庭一心斎らに誘われ天狗党に参加するも、早期に離脱。
戊辰戦争では尊攘派の浪士達を糾合して有栖川宮熾仁親王の軍勢に加わる。
明治維新後は司法官となり、横浜、京都、東京裁判所長、大阪控訴院長を歴任。
任期中起こった小野組小野組転籍事件の裁定に辣腕を振るい、槇村正直と舌戦を繰り広げた。
退役後、男爵に叙任され、法隆寺近郊で余生を過ごした。