北畠顕泰 (KITABATAKE Akiyasu)
北畠 顕泰(きたばたけ あきやす、永徳3年/弘和3年(1338年)-応永19年(1412年)?)は、南北朝時代 (日本)から室町時代前期にかけての公家。
伊勢国国司北畠家の第2代当主。
伊勢北畠家初代当主、北畠顕能の次男として生まれる。
永徳3年・弘和3年(1383年)に父が死去したため、家督を継いで第2代当主となる。
南朝_(日本)側に協力して北朝_(日本)側で伊勢守護を務めていた土岐氏と伊勢の支配権をめぐって争った。
明徳3年・元中9年(1392年)に明徳の和約された後も、南朝の元号である元中を書状で使用するなど、なおも室町幕府に対して抵抗した。
しかし当時の室町幕府は第3代将軍足利義満のもとで全盛期を迎えていたため、北朝の後小松天皇と足利義満が両統迭立を誓約した事によって、幕府と講和した。
そして応永6年(1399年)12月の応永の乱では、長男の北畠満泰と共に幕府軍の一員として参加し武功を挙げたが、満泰が戦死する。
応永19年(1412年)9月に本拠地の多気御所で死去(異説として応永9年(1402年)10月に死去とも、死亡年は応永22年(1415年)以降ともされる)。
長男の満泰は戦死していたため、次男の北畠満雅が後を継いだ。