北郷忠能 (HONGO Tadayoshi)
北郷 忠能(ほんごう ただよし、天正18年2月6日 (旧暦)(1590年3月11日) - 寛永8年2月5日 (旧暦)(1631年3月7日))は、安土桃山時代から江戸時代初頭にかけての九州の武将。
北郷氏12代当主。
幼名「長千代丸」、字は「次郎」。
略伝
父は11代当主・北郷忠虎、母は側室。
文禄4年(1595年)、父・忠虎が朝鮮出兵で客死したため5歳で家督を相続したが、幼児のため、政務は祖父の北郷時久が、軍務は叔父の北郷三久に後見されていた。
翌文禄5年(1596年)にはその祖父も亡くなり、三久も朝鮮半島に駐屯中のため、実務は家老の小杉重頼にゆだねられていた。
慶長4年(1599年)に庄内の乱が起こったが、乱の当事者・伊集院氏は北郷氏の故地である都城市を豊臣秀吉の肝いりで横領したと思われており、故郷を回復せんとするこのときの北郷氏家中の活躍はめざましかったという。
乱が島津本宗家側の勝利に終わったことにより北郷氏は故地・都城を回復することに成功した。
最もこの時幼少だった忠能は実際の軍務に携わることは全く無く、先頭に立ったのは叔父の三久であった。
慶長10年(1605年)には家老の北郷久陸を追放するなど家中への統制策を強める。
このころから独り立ちして北郷家の当主としての実務も見るようになったと思われるが、朝鮮出兵・庄内の乱で実際に活躍した三久を当主とすべきという勢力と対立し、家中が紛糾し出すようになる。
結局、島津本宗家の介入により、三久は別家として独立することで解決を見たが、この頃からたびたび家中に介入する島津本宗家との確執が始まる。
慶長12年(1607年)に島津氏最有力の分家で佐土原藩主となっていた島津以久の娘と結婚。
慶長17年(1612年)には江戸に向かい、徳川秀忠に島津本宗家を介することなく直に対面、馬を拝領されている。
島津忠恒とはきわめて不仲であり、家久から「家臣を大事にしない当主は上に立つ資格がない」という内容の詰問状を送られているが、家久自身が家臣の粛清をたびたび行っており、説得力はなかったようである。
寛永8年(1631年)病死。
享年42。
法名「二厳院殿剛嶽常金居士」。
忠能の死後、北郷氏は早世する当主が相次ぎ、次第に島津本宗家に圧迫されるようになっていく。
エピソード
忠能は弓の達人として知られており、慶長13年(1608年)10月には方広寺大仏殿の前で通し矢を演じて賞賛され、現在都城が和弓の名産地となる基礎を築いたとされる。
また徳田太兵衛は雑煮を詰まらせて死んだことで知られ、それはこの忠能に正月の挨拶に行ったときのこととされるが、年代にずれがあるようである。