十河千松丸 (SOGO Senmatsumaru)
十河 千松丸(そごう せんまつまる、天正3年(1575年) - 天正17年(1589年)7月)は、十河存保の子。
天正14年(1587年)、戸次川の戦いに参戦していた父の存保は「まだ千松丸は豊臣秀吉に謁見してない。自分が亡くなったら必ず秀吉に謁見させ、十河家を存続させるように」と家臣に伝えて、壮絶な戦死を遂げた。
存保の戦死により2万石の領地は没収され、その後同地に入った生駒親正は鼻紙代と称し3000石のみ与え、千松丸は親正の元で養育された。
成長後、豊臣秀吉との謁見の席が設けられたが、そこには親正とその甥の大塚釆女が同席していた。
秀吉は、千松丸の器量は父親に劣らず早く大人になって立派な武将になるようにと言って喜び、3000石しか領地を与えていないことには不服であったといわれる。
帰国後、千松丸はまもなく病没。
突然の死は生駒氏により毒殺されたと噂された。
遺臣や領民たちは嘆き悲しみ「命すつるも子ゆえにすたれ けなげなれとよ 千松丸」と唄い、十河父子の菩提を弔ったという。