千葉孝胤 (CHIBA Noritane)
千葉 孝胤(ちば のりたね、長禄3年(1459年)? - 永正18年8月19日 (旧暦))は、室町時代中期から戦国時代 (日本)初期にかけての武将。
千葉輔胤(岩橋輔胤)の嫡男。
生年には諸説あり、嘉吉3年5月2日 (旧暦)(1443年5月30日)生まれ、文安元年(1444年)生まれともされる。
千葉氏当主就任(僭称)への経緯
これより前、康正元年(1455年)11月に着陣した東常縁に追われ、原胤房は逐電し、馬加康胤とその子馬加胤持も討ち取られたが、千葉氏嫡流の千葉実胤には下総国を掌握するだけの力が無かった。
応仁の乱で所領である美濃国郡上を斎藤妙椿に奪われはしたものの10首の和歌をもって返還が叶ったので、東常縁は文明元年(1469年)4月に帰京し、文明3年(1471年)には宗祇に古今伝授を行っている。
そのため、印東庄岩橋村(現在の千葉県印旛郡酒々井町)付近を領有した岩橋氏(輔胤は馬加康胤の庶子を自称)が千葉氏当主を自称した。
また、征夷大将軍足利義政は、上杉憲忠を謀殺するなど粗暴な振る舞いの目立つ鎌倉公方足利成氏に対し、鎌倉からは追放はしたものの討伐するだけの力が無かったので、孝胤は足利成氏側に付き勢力拡大を図り、その後この系統も千葉氏と呼ばれている。
孝胤と享徳の乱
孝胤は文明 (日本)3年(1471年)ごろ父輔胤が出家したため家督を継く(このときに初めて千葉氏当主を自称したともされる)。
文明3年(1471年)3月、孝胤らの古河公方足利成氏側は、堀越公方足利政知を討つべく、伊豆国三島へ兵を進めた。
当初足利政知の元にはわずかな手勢しかなかったが、山内上杉家の軍と合流したことで勢いを盛り返し、退却した孝胤らの軍勢は散々に叩かれ壊滅状態となった。
さらに、4月には山内上杉家の家宰の長尾景信が下野国足利庄を攻略、6月24日に古河城が陥落した。
このため足利成氏は行き場を失い孝胤の領内に留まることとなった。
なお文明4年(1472年)2月に古河城を奪還し足利成氏は古河市に戻った。
そしてその後、文明8年(1476年)には山内上杉家の家宰の家督を叔父の長尾景忠に継承させたことに怒り、上杉顕定に背いて武蔵国鉢形城(現在の寄居町鉢形)に走った長尾景信の嫡男長尾景春が足利成氏側に付いた。
そのこともあり、抗争は次第に全面対決の様相を見せ始め、これに危惧した足利成氏と山内上杉家および扇谷上杉家の和議が進められた。
しかし和議が整うと孝胤は千葉氏当主を自称できなくなり、山内上杉家に終生復讐を繰り返した長尾景春とともに、和議に反対し名目上は足利成氏を主君としながらもその古河御所への帰城は阻止する方針を固めた。
そして、室町幕府と古河公方・山内上杉家・扇谷上杉家の和議が整い、造反勢力は長尾景春と孝胤らのみとなり、幕府が千葉氏当主と認めた千葉自胤の、太田道灌の支援を背景にした追討を受けることとなった。
文明10年(1478年)12月10日には境根原合戦で大敗、軍勢をまとめて退却し臼井城(現在の佐倉市臼井田)に籠城したが、文明11年(1479年)7月15日に臼井城は落城し、下総・上総国の大半は自胤に制圧された。
この時の孝胤の行動については定かではないが、落城の混乱にまぎれて行方をくらまし、父輔胤の拠点であった印東庄岩橋村(現在の千葉県印旛郡酒々井町)に戻ったとされる。
しかし近年では篠塚城(現在の佐倉市)が根拠地であるとする説が有力であり、なお同城を拠点して自胤と争ったと推定されている。
また、下総・上総の将士に孝胤を支持する動きが根強かったのも事実であり、彼らの支援を受けられなかった千葉自胤も同地に代官を置いたのみでの長期的支配を確立する事が出来なかった。
文明14年(1482年)の室町幕府と足利成氏の和議、その4年後に太田道灌が殺害されると、千葉自胤は政治的な後ろ盾を失って下総における支配を失ったまま明応3年(1493年)の死去に至ったと推定される。
以後、武蔵千葉氏側の下総への侵攻は発生しておらず、結果的に古河公方を奉じる立場を保持した孝胤の下総千葉領支配が確立したと見るのが通説である。
こうして、足利成氏が上杉憲忠を謀殺したことに始まる享徳の乱は終焉を迎えたが、応仁の乱に端を発した戦乱はとどまるところを知らず、戦国時代 (日本)の幕が開けようとしていた。
その後の孝胤
その後、孝胤は本佐倉城(現在の酒々井町)を築城して下総支配の根拠とした。
延徳4年(1492年)2月15日、父輔胤が亡くなったため出家、後を子の千葉勝胤が継いだ。