吉備真備 (KIBI no Makibi)
吉備 真備(きび の まきび、持統天皇9年(695年) - 宝亀6年10月2日 (旧暦)(775年11月3日))は、日本の奈良時代の学者、政治家(公卿)。
正二位・勲等・右大臣。
備中国下道郡(後の岡山県吉備郡真備町、現在の倉敷市真備町)出身の父は右衛士少尉下道圀勝(しもつみちのくにかつ)、母は楊貴氏(八木)氏(大和国(後の奈良県)の豪族)。
下道氏は吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一族。
略伝
716年(霊亀2年)、下道真備は22歳のときに遣唐留学生となり、翌年の717年(養老元年)に入唐した。
帰路では種子島に漂着するが、735年(天平7年)に多くの典籍を携えて帰国した。
唐では儒学のほか、天文学や音楽、兵学などを学び、帰朝時には、経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、楽器(銅律管、鉄如方響、写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓 (武器)(絃纏漆角弓、馬上飲水漆角弓、露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを献上し、『東漢観記』を持ち来たらした。
帰朝後は聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、737年(天平9年)に従五位に列せられた。
738年(天平10年)に橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、同時に帰国した僧玄ボウとともに重用され、真備は右衛士督の役職を兼ねた。
740年には、真備と玄昉を除くのを名目に、大宰府で藤原広嗣が反乱を起こしている。
741年に東宮学士として皇太子阿倍内親王(後の孝謙天皇・称徳天皇)に『漢書』や『礼記』を教授した。
その後、743年(天平15年)には従四位下、春宮大夫兼皇太子学士、746年(天平18年)には吉備朝臣の姓を賜り、747年に右京大夫に転じて749年(天平勝宝元年)には従四位上に昇った。
孝謙天皇即位後の750年には、藤原仲麻呂が専権し、真備は、筑前守、肥前守に左遷されたが、751年には遣唐副使となり、752年(天平勝2年)に入唐し阿倍仲麻呂と再会する。
753年には帰路で屋久島に漂着するが、鑑真を伴って無事に帰国している。
754年(天平勝宝6年)には大宰少弐に昇任、756年に新羅に対する防衛のため筑前国に怡土城を築いた。
758年には大宰府で唐での安史の乱に備えるよう勅を受け、759年(天平宝字3年)に大宰大弐(大宰府の次官)に昇任した。
その後、暦学が認められ、儀鳳暦に替えて大衍暦が採用された。
764年(天平宝字8年)には造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京した。
恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱を起こした際には、従三位に昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮して乱鎮圧に功を挙げ(藤原仲麻呂の乱)、765年には勲二等を授けられた。
766年(天平神護2年)、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)と法王に就任した弓削道鏡の下で中納言となり、藤原真楯の薨逝で大納言となった後、右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手とともに政治を執った。
これは、地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも、近世以前では、吉備真備と菅原道真のみである。
770年(宝亀元年)、称徳天皇が崩じた後には、後継の天皇候補として文室浄三および文室大市を推したが敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆息したという。
ただし、この即位をめぐる話は『水鏡』など後世の史書や物語にしかみえておらず、『続日本紀』には認められないので、後世の作り話ではないかと疑うひとも多い(瀧浪貞子など)。
光仁天皇即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将のみの解任を許し、右大臣の職は慰留した。
771年に再び辞職を願い出て許された。
それ以後の生活については何も伝わっておらず、775年(宝亀6年)に薨去した。
亡くなった地や墓所がどこなのかは不明であるが、奈良市内にある奈良教育大学の構内には真備の墓と伝えられる『吉備塚(吉備塚古墳)』がある。
職務の傍ら孔子をはじめとする儒教の聖人を祭る朝廷儀礼釈奠の整備にも当たった。
著書に『私教類聚』『道弱和上纂』『刪定律令』などがあるとされている。
伝説
『江談抄』や『吉備大臣入唐絵巻』などによれば、真備は、殺害を企てた唐人によって、鬼が棲むという楼に幽閉されたが、その鬼というのが真備とともに遣唐使として入唐した阿倍仲麻呂の霊(生霊)であったため、難なく救われた。
また、難解な「野馬台詩」の解読や、囲碁の勝負などを課せられたが、これも阿倍仲麻呂の霊の援助により解決した。
唐人は挙句の果てには食事を断って真備を殺そうとするが、真備が双六の道具によって日月を封じたため、驚いた唐人は真備を釈放した。
真備が長期間にわたって唐に留まることになったのは、玄宗 (唐)がその才を惜しんで帰国させなかったためともいわれる。
真備は、袁晋卿(後の浄村宿禰)という音韻学に長けた少年を連れて帰朝したが、藤原長親によれば、この浄村宿禰という人物は、呉音だった漢字の読み方を漢音に改めようと努め、片仮名を作ったとされる。
また、帰路では当時の日本で神獣とされていた九尾の狐も同船していたといわれる。
中世の兵法書などでは、張良が持っていたという『六韜』の兵法を持ち来たらしたとして、真備を日本の兵法の祖とした。
また、吉備真備は、陰陽道の聖典『ほき内伝』を唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたという。
金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」を表す。
安倍晴明は、阿部仲麻呂の一族の子孫とされるが、『金烏玉兎集』は安倍晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、鎌倉時代末期か室町時代初期に作られた書とみられている。
伝説によると、中国の伯道上人という仙人が、文殊菩薩に弟子入りをして悟りを開いた。
このときに文殊菩薩から授けられたという秘伝書『文殊結集仏暦経』を中国に持ち帰ったが、その書が『金烏玉兎集』であるという。
その他、『今昔物語集』では、玄昉を殺害した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術で鎮めたとし、『刃辛抄』では、陰陽書『刃辛内伝』を持ち来たらしたとして、真備を日本の陰陽道の祖としている。
『宇治拾遺物語』では、他人の夢を盗んで自分のものとし、そのために右大臣まで登ったという説話もある。
書家として
在唐中、書は張旭に学び、帰朝後、晋 (王朝)唐の書道を弘めた。
古筆中に、虫喰切、南部の焼切が現存する。