吉岡弘毅 (YOSHIOKA Hirotake)

吉岡 弘毅(よしおか ひろたけ、1847年7月8日(弘化4年5月26日 (旧暦)) - 1932年(昭和7年)9月12日)は日本の外交官・キリスト者(長老派教会牧師)。
外務権少丞として明治初期の日朝交渉に当たり、征韓論に反対した。
美作国(後の岡山県)の出身。

外務省任官まで

吉岡は美作国福渡町(後の岡山市内)の医家・吉岡有隣(長崎で蘭方医学を学び産科医として名を挙げていた)と「とわ」の三男として生まれた。
倉敷市の儒学者・森田節斎に陽明学を学んだことから熱烈な尊王攘夷となった。
そして京都市で尊攘派公家・壬生基修に仕えたのち官軍の一員として戊辰戦争に従軍、北越戦争へ参加した。
1869年、明治新政府により京都に創設された弾正台(監察機関)に任官した。
新政府内部の過激尊攘派の拠点ともいえる弾正台に職を得たことから見て取れるように、この時期の吉岡の思想はいまだ攘夷論志士としてのそれを引きずるものであった。
(実際、吉岡とともにキリスト教排撃を主張、同様に弾正台に任官した古賀十郎はのちに新政府転覆をもくろみ、吉岡の朝鮮滞在中に二卿事件への関与により梟首に処せられている)。
しかし1870年外務省への転任で吉岡は大きく変化していく。

青年外交官として日朝交渉へ

1870年、吉岡は外務権少丞に任じられ、政府より李氏朝鮮派遣の辞令を受けた。
彼は澤宣嘉(外務大臣 (日本))による(朝鮮側)礼曹判書宛の書契(国書)を携えて森山茂(外務少録)・広津弘信らとともに東京を出発、対馬を経由して朝鮮に赴いた。
同年末12月24日(旧暦11月3日)には釜山広域市倭館(旧・対馬藩公館)に到着し朝鮮政府との交渉を開始した。

当時、1869年以降のいわゆる「書契問題」が原因で、新政府が樹立された日本と朝鮮との間には国交が結ばれていなかった。
吉岡は20代前半の若さで対馬府中藩・宗氏から外務省に引き継がれた日朝外交の最初の担当者として国交樹立交渉に臨んだのである。
(したがって沢外務卿の書契では日朝間のトラブルの原因となった表現(後出)が削除されていた)。
しかし興宣大院君政権下で極端な攘夷政策をとり、従来どおり対馬藩を通じた外交関係の維持を要求する朝鮮側との交渉は難航を極めた。
また永年の特権であった朝鮮通交事務や草梁倭館の管理業務を取り上げられようとしていた厳原(対馬)藩吏たちも陰に陽に交渉を妨害した。
このため、翌1871年春になって吉岡らは、厳原藩から外交事務の特権を取り上げた上で旧藩主(厳原藩知事)宗義達を外務省の役職(外務大丞)に任命した。
彼を朝鮮に派遣して直接説得に当たらせる方策をとることにした。
しかしこの策の実行は廃藩置県による厳原藩廃止(これにより同藩の朝鮮通交事務は罷免され、対朝鮮外交は外務省に完全移管された)や岩倉使節団派遣などによる混乱によって停滞した。
すなわち宗はいったん新政府より外務大丞に任命され廃藩置県通知のための朝鮮派遣を命じられた(1871年9月)ものの、翌1872年1月(旧暦の明治4年12月)には派遣中止と決定された。
改めて宗外務大丞名義の文書を朝鮮に送付することとなった。
こののち宗の書状を携えた森山・広津らが朝鮮側の忌避する蒸気船で釜山に入港した。
一方的に草梁館の接収事務を開始した。
同時期の米軍艦による江華島砲撃事件(辛未洋擾)ともあいまってますます朝鮮の態度を硬化させた。
森山・広津が釜山に帰任するまでの間、吉岡は草梁館から外に出ることも許されなかった。
自分よりも年上で経験豊かな(かつ上記の理由で非協力的な態度を取った)旧厳原藩吏らを督促し実務交渉にあたらせるしかなかった。
とはいえ釜山滞在中、吉岡は朝鮮側の心情がかつての文禄・慶長の役に由来する「恐怖の念」によるものであるのではないかという認識を示している。

結局のところ、吉岡ら外務省使節団による国交交渉は、1872年4月、朝鮮政府の役人に宗外務大丞名義の文書の写しを預けた以上には進展しなかった。
朝鮮側との正式な協議は一度も開かれないまま吉岡は同年7月に草梁館に滞在する日本官吏の引き揚げを命じ、みずからも帰国の途に就いた。
そして帰国後、外務省への報告において彼は、今回の交渉失敗と引き揚げによって両国間が絶好に等しい状態になってもいつの日か「解悟氷釈」の時期が来るだろうと述べている。
さらに厳原藩吏や商人が従来のように朝鮮人に対し粗暴な振る舞いをしてはならないと告示した。
日本の漂流民が朝鮮人に要求した薪・食糧の代金を外務省が支払うよう上申している。

「征韓不可」を建白

帰国直後の9月、吉岡は外務省を依願退官した。
これは交渉不調による引責辞職ではなかった。
あくまで彼の自発的意志にもとづくものだったようである。
吉岡の帰国・退官後の日朝関係は以下の通り。
1872年秋から翌1873年にかけて、後任の花房義質(外務大丞)が軍艦「春日丸」により朝鮮に派遣され草梁倭館を接収。
さらに三井財閥による(外務省黙認のもとでの)密貿易が発覚した。
朝鮮側は厳しい「禁圧」で臨む。
(この時掲示されたとされる「伝令書」の文言が征韓論建議の直接のきっかけとなった)。
このように悪化の一途をたどった。
また日本側でも政府内の征韓論争に端を発して明治六年政変が起こった。
1874年初めには征韓を掲げる佐賀の乱が勃発した。

このような情況を憂慮した吉岡は、既に下野した身ながら1874年2月建白書を左院に提出した。
この建白書の内容は極めて多岐にわたる。
第6条は「西郷隆盛副島種臣諸人を再用し且各府県に民撰小議院を建つることを論ず」とある。
「征韓論」、あるいはそうでなければ「内地優先論」的非征韓論(すなわち征韓そのものを否定するのではなく、「時期尚早」であるがゆえに反対するもの)が大多数を占めていた。
このような当時の状況において、建白書には例外的な、原則的・道義的な「征韓不可」の主張が現れており、注目される。
すなわちここで吉岡は、一方ではしばしば仮病など遁辞を弄して会見を避ける朝鮮側の不誠実な態度を非難しながらも、世間で噂されるように彼らが「我国書ヲ裂キ(中略)驕慢無礼ノ答書」を突きつけたなどと言う事実はなかったと述べている。
さらに朝鮮側が日本との国交樹立に消極的である原因について、過去の豊臣秀吉の文禄・慶長の役の経緯や、かつて対馬藩が朝鮮側を恐喝し米穀をせしめていたことなどを挙げた。
新政府が書契に「皇」「勅」の字を用いたことで、日本が「虚名ヲ以テ、我ヲ属国ノ体ニ陥レ」るのではないかという、朝鮮側のあらぬ「疑懼」を招くこととなった。
その責任は日本側にあるとする。
そして彼は、国交が更新できないことを理由に征韓をおこなうことが正しいならば、鎖国時代の日本をもし西洋人が侵攻していたとしても我々はそれを非難することはできないと述べた。
「己ガ欲セザル所、コレヲ人ニ施スコト勿レ」と独善的な征韓論を批判しているのである。
と同時に、征韓を主張したことで下野した西郷隆盛・副島種臣ら元参議に対しても「異議異見」を重んじる立場をとった。
(彼らを政府に再び登用することを求めている)。
しかし、吉岡のこの建白書が政府により取り上げられた形跡はない。

牧師としての後半生

上述の建白書を提出した翌年の1875年、吉岡はプロテスタントの一派である長老派教会のD・タムスンから受洗しキリスト教に改宗。
ついで1878年9月、本郷日本基督一致教会(長老派)の創立に参加して長老に選出された。
この時期の彼の言論としては、1879年10月、海外伝道委員会で朝鮮布教に消極的意見を述べている。
1882年8月『六合雑誌』に「駁福澤氏耶蘇教論」を発表した。
福澤諭吉の著書『時事小言』を「我日本帝国をして強盗国に変ぜしめんと謀る者」であるとした。
「いたずらに怨を四隣に結び、憎を万国に受け、不可救(すくうべからざる)の災禍を将来に遺さんこと必なり」と批判していることが知られている。
その後の吉岡は、東京基督教徒青年会(東京YMCA)創設に関与した。
また大阪・高知・京都など牧師として各地を転々して、キリスト者としての後半生を過ごした。
1932年に死去(数え年で86)している。

年譜

1847年:出生。

1869年7月:弾正台に任官。

1869年8月1日(明治2年6月24日):弾正台少巡察。

1869年9月18日(明治2年8月13日):弾正台大巡察。

1870年5月12日(明治3年4月12日):外務省奏任官として任用。

1870年8月8日(明治3年7月12日):外務権少丞。

1870年10月12日(明治3年9月18日):朝鮮国派遣の辞令を受ける。

同年12月24日には釜山に到着。

1872年7月21日(明治5年6月16日):帰国の途につく。

1872年9月1日(明治5年7月29日):外務省を依願免官。

1878年9月:本郷日本基督一致教会(長老派)の創立に参加、長老に選出。

1884年:大阪北教会初代牧師。

1888年7月:高知教会牧師。

1892年:京都室町教会牧師。

1909年:牧師を辞職。

1932年:死去。

家族

三男は「海ゆかば」で知られる作曲家の信時潔である。

[English Translation]