吉川経高 (KIKKAWA Tsunetaka)

吉川 経高(きっかわ つねたか、天福 (日本)2年/文暦元年(1234年) - 文保3年/元応元年(1319年))は鎌倉時代末期の武士。
父は吉川経光。
子に吉川経盛、吉川経長、吉川経頼。
幼名は手子熊丸。
官位は伊豆守。
事実上の吉川氏の祖である。

1267年に父・吉川経光から家督を相続。
この頃の吉川氏は本領の駿河国だけではなく、安芸国や播磨国にも所領を抱えていた。
しかしその管理が不十分であり、所領を横領される等の事件が相次いだ。
そのため1313年、吉川経高は鎌倉幕府に所領の返還を求めた。
その訴えが認められると、80歳近い老躯をおして、総領の経高は本領の駿河を離れ、安芸国大朝町に移住した。
中央情勢に左右されやすく、また弱小の御家人では関東近隣での生き残りが難しいと考えたためと推測される。

ただ、駿河には末弟の吉川経時を置き、その他の所領も、播磨国福井荘を弟の吉川経盛 (播磨国)(播磨吉川氏)に与え、石見国津淵荘の地頭職を弟の吉川経茂に(後に吉川経家らの一族を出す「石見吉川氏」)、弟の吉川経信 (初代)には大朝まで同行させ、大朝の一部を与えて自身の補佐とした。
大朝に入ると駿河丸城を築城し、居城とした。

1319年に家督を嫡男の経盛に譲り、同年86歳の高齢で没する。

吉川氏を安芸国に移住させることによって、後の吉川氏の発展と、その名と血脈を現代まで残すことに成功した功労者と言えよう。

[English Translation]