吉良義俊 (KIRA Yoshitoshi)

吉良 義俊(きら よしとし、寛文11年(1671年)頃 - 寛保2年2月26日 (旧暦)(1742年4月1日))は江戸幕府の高家旗本。
吉良氏の分流のひとつ。
もともと高家蒔田家を称していたが、有名な元禄赤穂事件(忠臣蔵事件)で吉良家が断絶の後に吉良姓に戻った。
通称は源六郎(げんろくろう)、式部 (しきぶ)、左兵衛(さへえ)。
官位は従四位下侍従、河内守(こうちのかみ)、左兵衛督(さひょうえのかみ)、左京大夫(さきょうのたいふ)。

生涯
高家旗本蒔田義成(1020石)の長男として誕生。
母は不詳。
蒔田氏は吉良氏の始祖足利義氏 (足利家3代目当主)の次男吉良義継を祖とする家柄である。
長男吉良長氏の流れが本家吉良家であるが、次男の流れも13代にわたって吉良を称した。
しかし吉良頼久の代に徳川家康から「吉良姓を継承するのは本家だけにせよ」と命じられた。
そのため、このときに蒔田と改名した。
以降、蒔田氏は、義祗・義成、そしてこの義俊へと受け継がれるのである。

貞享元年(1684年)12月19日はじめて将軍徳川綱吉に拝謁。
元禄4年(1691年)7月21日に父義成の死去で家督を相続した。
元禄5年(1692年)1月11日に奥高家となり、従五位下侍従・河内守に叙任した。
元禄6年(1693年)9月29日、高家の列を離れて小姓組に転じた。
元禄7年(1694年)3月10日には300俵を加えられた。
また元禄10年(1697年)7月26日には切米を所領に改められて、武蔵国比企郡と入間郡に都合1420石を領した。
宝永6年(1709年)2月21日から奥高家に復帰した。
9月26日には皇居の工事が無事に終わったことに対する幕府の祝賀の使者として京都の朝廷へ派遣された。

元禄赤穂事件以来、本家の吉良家が断絶していたため、義俊は、姓を蒔田から吉良に戻す許可を幕府に求めていた。
宝永7年(1710年)2月15日にこれが許された。
なお同年浅野長矩の弟浅野長広が旗本として復興している。
つまり奇しくもこの年に浅野吉良両家が同時に再興する形となったわけである。
また享保17年(1732年)には高家吉良家の分家吉良義孚(よしざね)も吉良姓に復している。

享保5年(1720年)1月9日、皇子若宮昭仁親王御誕生(のちの桜町天皇)の幕府の祝賀の使者として京都へ赴いた。
4月28日には従四位下に昇った。
元文2年(1733年)4月19日、中御門天皇の崩御により、幕府の弔辞の使者として京都へ派遣された。
元文5年(1736年)12月5日に奥高家職を辞して表高家(無役の高家)に列した。
寛保2年(1742年)2月26日死去。
享年73。

[English Translation]