和珥部君手 (WANIBE no Kimite)
和珥部君手(わにべのきみて、生年不明 - 文武天皇元年(697年)9月)は、日本の飛鳥時代の人物である。
姓は臣。
氏は和邇部、和爾部、和尓部、丸部とも書くが、読みはいずれも「わにべ」である。
672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)について戦い、功があった。
壬申の乱での活躍
和珥部氏は、和珥氏の属民で尾張国、美濃国、近江国といった各地に分布しており、君手の出身地は不明である。
舎人として大海人皇子に仕えたと考えられている。
壬申の乱で大海人皇子が挙兵を決断したとき、君手は吉野にいた皇子のそばにいた。
皇子自身か行動をおこす2日前、6月22日に、和珥部君手は村国男依、身毛広と3人で美濃国に先行するよう命じられた。
彼らの任務は、安八磨郡(安八郡)の湯沐令多品治に連絡し、まずこの郡を挙兵させることであった。
彼らは無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。
大海人皇子は美濃国に入り、二手に分けたそれぞれ数万の軍勢を、7月2日に近江国と倭(大和国)の2方面に送り出した。
和珥部君手は、村国男依、書根麻呂、胆香瓦安倍とともに近江行きの軍を率いた。
男依らの軍は連戦連勝して進撃し、22日には瀬田で敵の最後の防衛線を破った。
大友皇子が翌日自殺したことで、壬申の乱は終わった。
君手は後にこの戦争を回顧して「和邇部臣君手記」を書いた。
功臣のその後
日本書紀には12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山位以上をあたえたとする記事があるので、君手が受けた位もこれ以上ではあっただろう。
また、80戸の封を与えられた(『続日本紀』大宝 (日本)元年(701年)7月21日条)。
文武天皇元年(697年)7月9日に、勤大壱だった君手は直広壱を与えられた。
これを伝える『続日本紀』の記事は「壬申の功臣」としか理由を伝えないが、他の例で壬申の功臣への賜位記事は死亡時の追贈であるから、この場合も同じと考えられる。
続日本紀大宝 (日本)元年(701年)7月21日に、食封の4分の1を子孫に伝えることが決められた。
霊亀2年(716年)4月8日に、従六位上だった息子の大石が、他の壬申の功臣の子息と並んで田を与えられた。
このときの君手の冠位は直大壱と記されており、死亡時とされる697年より高いが、理由は不明である。