堀秀政 (HORI Hidemasa)
堀 秀政(ほり ひでまさ)は、戦国時代 (日本)の武将・大名。
信長の側近
天文22年(1553年)、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。
幼い頃は一向宗の坊主であった伯父の元で従兄弟の堀直政と共に育てられたという。
最初、大津長治、木下秀吉に仕え、13歳の若さで織田信長の小姓、側近として取り立てられた。
十六歳で、将軍足利義昭の仮住まいの本圀寺の普請奉行を担うなど、各種の奉行職を務め、側近としての地位を確立する。
信長の側近には秀政のほかに、菅屋長頼、福富秀勝、大津長昌、矢部家定、長谷川秀一、万見重元らがいる。
秀政は次第に奉行職だけでなく戦場でも活躍するようになる。
織田軍の主要な合戦である天正3年(1575年)の越前国一向一揆討伐に参加。
天正5年(1577年)の紀伊国雑賀討伐戦では信長本陣から離れ、佐久間信盛、羽柴秀吉らとともに一隊を率いる。
翌年の有岡城攻め(有岡城の戦い)では、万見、菅屋らと鉄砲隊を率いる。
天正9年(1581年)には伊賀攻めで、大将は織田信雄だが、信楽口からの部隊は秀政が率いた。
天正9年(1581年)に近江国坂田郡に2万5000石を与えられた。
この時長浜城 (近江国)主になったとの史料もあるが、その後も秀吉が長浜城を使っているという指摘もある。
また坂田郡2万5000石も清洲会議で、織田秀信の所領の代官になったときの石高と一致し、それと混同しているのではないかという指摘もある。
同じ年に、菅屋長頼に前田利家の越前府中城を与える書状を出しているが、本能寺の変により実現しなかった。
秀政の長浜城主もこれと同じではないかとの指摘も。
その後も荒木村重討伐で功、天正10年(1582年)の武田征伐では信長に従って甲信に入るが、織田信忠が武田を滅ぼしたあとで戦闘には参加せず。
奉行としての仕事は、天正7年(1579年)、安土宗論のとき菅屋、長谷川らと奉行を務める。
翌年(1580年)、バテレン屋敷の造営奉行を菅屋、長谷川らと務める。
同年、信長の蜂須賀正勝宛の書状に副状を出す、などがある。
また、天正10年(1582年)の本能寺の変の直前には、徳川家康の堺での接待役を明智光秀が外されたあと、丹羽長秀と共に務めており、この接待を終えた後、備中の秀吉の下へ向かっている。
豊臣恩顧の大名
山崎の戦い
天正10年(1582年)、本能寺の変が起こって信長が死去したとき、秀政は秀吉の軍監として備中国にいた。
そしてその後は秀吉の家臣となって、山崎の戦いに参陣。
中川清秀、高山右近らと先陣を務める。
明智の将、松田政近との戦の際、第一陣の堀尾吉晴がまず山を登る、その後秀政が続いて登ろうとしたとき、家臣の堀七郎兵衛が次のように諌めた。
「既に登られた堀尾殿がもし敗れたら、必ずや共崩れとなりましょう。」
「道を替えて登ってこそ勝利の見込みがあると思います。」
このため、道を替えて登ったところ、堀尾勢は崩れたが、秀政はその横から攻め込み、政近を破ることができたという(『名将言行録』)。
堀七郎兵衛は堀直政の兄堀利宗(或いは道利)と推定され、利宗は、最初足利義輝に仕え、義輝の死後、織田信長に仕えていた人物。
秀政を一族の惣領として、父の秀重、姻戚の堀直政、利宗ら年長者たちが、秀政を盛り立てていた様子の一端が伺える。
明智光秀は柴田勝全(かつまた)の助けで山崎を脱出。
勝全は柴田勝家の北ノ庄城の城代をしていた。
のち明智に従い、明智が滅ぶと秀政の配下に入り、長久手の戦いを共に戦った。
秀政はまた、光秀の援護にきた従兄弟の明智秀満を坂本城に追い込む。
敗北を悟った秀満は先祖代々の家宝を秀政の家老直政に譲る旨を告げ、城に火を放ち自害した。
清洲会議、北ノ庄攻め
清洲会議では、織田秀信の蔵入領の代官と守役を承る。
天正11年(1583年)4月、秀吉は越前北ノ庄の柴田勝家を攻めた。
家康が秀吉に宛てた書状には「はた又、久太郎(秀政)方砦へ、柴田取りかかり候のところ、すなはち合戦に及び、切り崩され、あまた討捕られ候えば、定めて比類なき儀、心地よく候、云々」と秀政の軍功を褒めている。
戦後、羽柴姓を賜り、従五位下、左衛門督に叙任。
また近江佐和山九万石を賜る(佐和山は清洲会議で賜ったという史料もある)。
従兄弟の六右衛門が一向宗蓮照寺住職となっていた関係で、本願寺方との交渉をも受け持った。
長久手の戦い〜北ノ庄城主
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、味方の軍は大敗を喫したが、余勢を駆った家康方の大須賀康高、榊原康政らを自軍を三手に分けて待ち伏せし、挟撃し敗走させた。
家康本隊とは戦わず退却。
天正13年、秀吉が関白になると、秀政は従四位下、侍従兼左衛門督に叙任。
天正13年(1585年)の紀伊根来寺攻めや四国征伐戦による軍功から故丹羽長秀の遺領越前国北ノ庄に18万石を与えられた。
与力に加賀小松の村上義明、加賀大聖寺の溝口秀勝が付けられた。
天正14年には、長谷川秀一とともに昇殿を許された。
九州攻め、小田原攻め
天正15年(1587年)の九州征伐にも参陣。
秀政は先鋒部隊を任される。
このときの逸話に、諸城を次々落とし、薩摩国の武士五十数人生捕り、助けてやる代わりに、次のように伝言せよ、と言いつけて生捕りを放した。
「堀久太郎は、このたびの戦に先陣を承り、至る所で敵軍は手間も入らずに崩れたが、このため遥々とやってきた我等人数は、休息の暇も無く、殊の外くたびれている。」
「だから行く先々の城兵は、いずれも精を出して、せめてもう三日は、城を持ちこたえていてほしい。」
「そうしている間に我等は人馬を休ませたいのだ」
薩摩の武士は驚いて逃げ帰り、この事を伝えれば、秀政の武威に、もはやこれまでかと詠嘆した。
天正18年(1590年)の小田原攻めにも参陣、左備の大将を命ぜられる。
箱根口を攻め上り、山中城を陥落。
小田原早川口まで攻め込み、海蔵寺に本陣を布いた。
しかし五月下旬に疫病を患い、陣中にて急死した。
享年38。
後を長男の秀治が継いだ。
墓所:福井県北之庄の長慶寺。
のちに新潟県春日山の林泉寺 (上越市)に改葬。
人物
信長が秀政を寵愛したのは、才能が優れていたほかに、秀政が美少年だったからだとも言われ、そのため森成利(成利)が信長に重用されるようになるまでは、側近として絶大な権力を与えられていたと言われている。
秀政の才を愛していた秀吉は、小田原征伐が終わり次第、秀政に関東を与えようと考えていたと、『名将言行録』では記されている。
「秀政は傑出の人なり。秀吉深く之を愛し、小田原の役終わらば、関八州を与へんと思はれしが、惜しい哉、戦に死せり」
何をやらせてもそつなくこなしたため、「名人久太郎」と称された。
柳生宗矩の物語に小田原征伐の際の秀政についての記述がある。
「秀政、遊軍の総大将にて多くの大名従いしなり。
此の時宗矩も細川玄蕃允の手につき攻め下る。
秀政卒せる時、高き人も、賤しき人も、をしき人といいき。
世の人名人左衛門と名づく。
天下の指南をしても越度(おちど)あるまじき人なりと、天下をもしらせたき人なりといふ言葉なり。」
『三河後風土記』には、「今度奥州まで平均なしなば、此人をもって奥州の藩鎮たらしめんと、殿下はかねがねはかり給ふところ、かく俄かなる事なれば、歎かせ給ふもことわりなり。」とある。
九州攻めでの逸話。
秀政の近臣に山下甚五兵衛という者がいた。
この男が戦の恐怖に乱心して、突然秀政に背後から切りかかった。
秀政は振り返りざまに山下を斬ったが、そのとき直政もいち早く駆けつけていて、同時に山下を背後から斬っていた。
家臣たちは全く動けなかった。
秀政は直政に「わしが先だった」といって笑った。
直政は静かにうなづき、刀を納めた(『名将言行録』)。
盟友二人の性格の対比が見事な逸話である。
生前、「油断」と書いた額をかけておき、家人に「人は只、油断の二字を戒むべきである。」と言っていた。
北ノ庄時代、「堀左衛門督殿、悪しき仕置の条々」と、三十数箇条にわたり、家中の諸士のあてがい扶持、百姓、町人の作法の悪い旨の高札を城下の辻に建てるものがいた。
この高札を読んだ秀政は、袴をつけ、手水で口をすすぎ、高札を三度押し戴き、「こんな立派な諌めの言葉を私に向かっていえるものは誰もいないはずだ、これはひとえに天の与えさせ給うものだ」といい、家宝として、袋に入れ、箱に収め、家中の者の作法、善悪を糾し、ことごとくを改めさせた。
それより、世の人、挙げて「名人左衛門」とたたえたという。
秀政は織田家の衰退を歎いていたと後に直政が証言。
「秀政、信長公の御子孫衰えさせ給ふを深く御歎きあり、如何なる謀事あるやも知れずと、常に御隠密の仰せを蒙りたり」
秀政は信長の寵愛を受け、孫の三法師の御守役も務めた。
その為、織田家への思いは人一倍だったのであろう。