大江広元 (OE no Hiromoto)
大江 広元(おおえ の ひろもと、久安4年(1148年) - 嘉禄元年6月10日 (旧暦)(1225年7月16日))は、平安時代末期、鎌倉時代初期の実務官僚。
鎌倉幕府の政所初代別当(長官)。
最初は朝廷に仕える下級貴族のいわゆる官人であったが、鎌倉に下って源頼朝の側近官僚となり、鎌倉幕府の創設に貢献した。
大江は本姓であり苗字ではないため、大江広元は“おおえ の ひろもと”と読むのが正しく、“おおえ ひろもと”ではない。
略歴
広元は『江氏家譜』では藤原光能の息子で、母の再婚相手である中原広季のもとで養育されたと言われる。
しかし『尊卑分脈』「大江氏系図」では大江維光は実父、中原広季は養父とされている。
逆に『続群書類従』「中原系図」では中原広季は実父、大江維光は養父とされており、はっきりしたことは解らない。
当初は中原広元(なかはら の ひろもと)と呼ばれる。
大江姓に改めたのはかなり遅く1216年(建保4年)である。
極官は正四位陸奥守。
広元の兄・中原親能は源頼朝と親しく、早くに京を離れ頼朝に従っていた。
1183年(寿永2年)10月には源義経の軍勢と共に上洛し、翌1184年(元暦元年)正月に再度入京して頼朝代官として万事を奉行し、貴族との交渉に活躍する。
その親能の縁から1184年に広元も頼朝も鎌倉へ下り、政所の前身である公文所別当となる。
更に頼朝が二品右大将となって政所を開設してからは、その別当として朝廷との交渉その他に実務家として活躍する。
『吾妻鏡』1185年(文治元年)11月12日条により、頼朝が守護・地頭を設置したのも広元の献策によるとよく言われ、研究者の間でも古くはそう理解されてきた。
しかし1960年(昭和35年)に石母田正がこの問題を詳細に分析し、これは幕府独自の記録によったものではなく、鎌倉時代の後期の一般的な通説に基づく作文ではないかと指摘する。
そこから盛んな論争が巻き起こり、現在では広元の献策「権門勢家の庄公を論ぜず、兵粮米(段別五升)を宛て課す」は、「諸国平均」ではなく「五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国」であるとされている。
また、「守護」職はこのときではなく、1185年での要求は源義経・源行家の捜索・追捕を名目とした一国単位の「国地頭」と「総追捕使」であって、室町時代にまで繋がる守護職の発端は1190年(建久元年)に頼朝が初めて上京し、後白河法皇や九条兼実らと合意した「諸国守護」を奉行する権限にあるとされている。
1199年(正治元年)の頼朝の死後は、北条義時や北条政子と協調して幕政に参与する。
承久の乱のときも、長男大江親広が官軍側につき、親子相克した。
しかし、『吾妻鏡』では広元はあくまで幕府軍の側に立って朝廷との一戦に慎重な御家人を鼓舞、主戦論を唱えた北条政子に協調して幕府軍を勝利に導いた影の功労者のひとりとされる。
ただしこれも「守護・地頭」の件と同様に、顕彰記事の疑いもあるとされる。
しかし広元が和田義盛の乱の際しての軍勢召集や所領訴訟に際して、執権である北条義時とともに広元が「連署」をした文書が存在することや、頼朝が強いつながりを有していなかった土御門通親などの公卿との独自の交流を有するなど、鎌倉幕府における京吏の筆頭であり、重要な地位を占めていたことは確かである。
年譜
年月不詳 明経得業生となる。
仁安 (日本)3年(1168年)12月13日、縫殿允に任官。
嘉応2年(1170年)12月5日、権少外記に遷任。
承安 (日本)元年(1171年)1月18日、少外記に転任。
承安3年(1173年)1月5日、従五位下に叙位。
月日不詳、九条兼実の政務に関与。
寿永2年(1183年)4月9日、従五位上に昇叙。
元暦元年(1184年)、相模国鎌倉に下向。
源頼朝の家政機関たる公文所別当に就任。
9月17日、因幡守に任官。
文治元年(1185年)4月3日、正五位下に昇叙。
因幡守如元。
4月27日、源頼朝公卿に列するに伴い、公文所を政所と改め、引き続き別当留任(異説として公文所・政所の両所並存・別当兼務説がある)。
6月29日、因幡守辞任。
建久2年(1191年)4月1日、明法博士兼左衛門大尉に任官。
検非違使にも補任。
11月5日、明法博士辞任。
建久3年(1192年)2月21日、検非違使・左衛門大尉両官職辞職辞任。
建久7年(1196年)1月28日、兵庫頭に任官。
正治元年(1199年)12月9日、掃部頭に遷任。
正治2年(1200年)5月、大膳大夫に転任。
建仁3年(1203年)、大膳大夫辞任。
建永元年(1206年)、鎌倉幕府政所別当辞職。
建保元年(1213年)1月5日、従四位上昇叙。
建保2年(1214年)1月5日、正四位下昇叙。
建保4年(1216年)1月27日、陸奥守に任官。
閏6月1日、大江の氏に改めるに付き、朝廷認可。
8月、鎌倉幕府政所別当に復職。
建保5年(1217年)11月10日、陸奥守辞任。
出家し覚阿を号する。
(陸奥守の後任は、鎌倉幕府執権北條義時となる)
嘉禄元年(1225年)6月10日、入寂。
享年78。
末裔
長男・大江親広は政所別当・京都守護などの幕府要職を歴任するが、承久の乱で朝廷方に付いて敗走し、出羽国寒河江荘に籠もる。
その子孫は寒河江氏などにつながるという。
次男・長井広時は備後守護となり、兄大江親広が承久の乱でその地位を失って以降、大江氏の嫡流として、少なくともその子長井泰秀から評定衆を始め幕府の要職を務めた。
広元から五代目の長井宗秀は寄合衆にもなり、『吾妻鏡』の編纂者のひとりと目されている。
三男・宗元の経歴は不明である。
その子那波政茂は1239年(延応元)に左近将監、1241年(仁治2)に従五位下に叙爵、その後従五位上に進み、1254年(建長6)に引付衆となっている。
四男・毛利季光は16歳の1216年(健保4)に従五位下に叙爵、32歳のとき『吾妻鏡』1233年(天福元)11月3日条に評定衆とある。
1247年の宝治合戦で三浦泰村に味方して三浦一族とともに源頼朝持仏堂であった法華堂で自害する。
しかしその四男毛利経光は越後に居たため巻き込まれず、所領を安堵された。
経光の二男時親は南条と安芸吉田庄を相続した。
時親は戦国大名安芸毛利家の始祖となって毛利元就に繋がる。
また越後国の越後北条氏(きたじょうし)も時親の子に始る。
五男・海東忠成は1227年に叙爵し従五位下、その後従四位下まで進んだ。
1245年に評定衆となったが、宝治合戦における兄への加担を問われ辞職。
また、三河国の酒井氏、因幡国の因幡毛利氏、出雲国の多胡氏など大江広元を祖とするとものは多数見られるが、真偽のほどは不明である。
備考
広島市の地名は、広元の子孫・毛利輝元が1589年(天正17年)広島城築城の鍬入れの時に、毛利氏の祖先である広元から一字を採って命名したといわれている(諸説あり)。