大炊御門経孝 (OINOMIKADO Tsunetaka)

大炊御門 経孝(おおいのみかど つねたか、慶長18年12月14日 (旧暦)(1614年1月23日)- 天和 (日本)2年6月26日 (旧暦)(1682年7月30日))は、江戸時代前期の公卿。
後水尾天皇(108代)から霊元天皇(112代)の4代にわたって仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。
大炊御門経頼の次男。
母は吉良義康の娘。
兄に大炊御門頼国。
初名、経敦。
子女に大炊御門経光、諏訪忠晴養女(最上義雅室)、大久保忠高継室、花山院定誠室。
後光福寺と号した。

兄の頼国が猪熊事件に関与したとして硫黄島 (鹿児島県)に配流されたために大炊御門家を相続する。
慶長19年(1614年)に叙爵。
以降累進し、寛永8年(1631年)に従三位となり、公卿に列した。
その後、中納言・踏歌節会外弁・大納言・近衛府など要職を歴任し、明暦2年(1656年)には内大臣に就任。
さらに寛文3年(1663年)には右大臣となり、寛文10年(1670年)従一位、左大臣となるが、寛文11年に職を辞した。

[English Translation]