大石良欽 (OISHI Yoshitaka)
大石 良欽(おおいし よしたか、元和 (日本)4年(1618年) - 延宝5年1月26日 (旧暦)(1677年2月27日))は、江戸時代前期の武士。
赤穂浅野家の筆頭家老。
忠臣蔵で有名な大石良雄の祖父。
通称は内蔵助(くらのすけ)。
赤穂浅野家筆頭家老の大石良勝の嫡男として誕生。
母は大石良定の娘。
慶安3年(1650年)8月、父良勝の死去により1500石の家督と家老職を相続。
寛文元年(1661年)に京都内裏(皇居)が炎上すると、その翌年に赤穂藩主浅野長直が新内裏造営を命じられたが、この際に良欽が長直に代わって京都へ赴き、造営工事の総指揮をとる。
完成した内裏は見事なもので、後西天皇からもその出来栄えを褒められるほどであった。
妻に鳥居忠勝(関ヶ原の戦いで伏見城攻防戦にあたった鳥居元忠の子。兄鳥居忠政の家臣)の娘を迎えた。
その間に大石良昭(嫡男・大石家の跡継ぎ)、小山良速(次男・広島藩浅野家家臣となる)、小山良師(三男・赤穂藩足軽頭300石)、ちょう(長女・赤穂藩重臣近藤正憲の妻)、大石良次(四男・高松藩松平家家臣となる)、つう(次女・進藤俊式の妻)、千代松(三女・広島藩士進藤吉大夫妻)の7人の子を儲けた。
延宝元年(1673年)に長男良昭を失ったため、良昭の長男である大石良雄を養嗣子に迎えた。
延宝5年(1677年)1月26日に死去。
享年60。
赤穂市花岳寺に葬られた。
清巌院殿龍山宗雲居士。
大石家の家督と浅野家家老職は、大石良雄が継いだ。