大達羽左エ門 (ODATE Uzaemon)
大達 羽左エ門(おおだて うざえもん、嘉永6年12月15日 (旧暦)(1854年1月13日) - 明治37年(1904年)8月17日)は出羽国田川郡 (羽前国)(現・山形県鶴岡市)出身の力士で、最高位は大関。
本名は諏訪弁冶。
現役時代の体格は175cm、125kg。
養父は元前頭千賀ノ浦喜三郎。
来歴
農家の次男に生まれる。
若い頃から怪力で知られたが、大食漢なうえ大の相撲好きが災いして家業をおろそかにすることが多く、養子先から離縁され、本職の力士を目指して上京する。
はじめ朝日嶽鶴之助のいる立田川 (相撲)部屋に入門し番付にも載るが、やがて脱走。
新潟県を放浪、造り酒屋などで奉公しながら、素人相撲で活躍していたが、明治10年(1877年)高砂浦五郎_(初代)「高砂改正組」事件を率いて巡業に来ていた高砂浦五郎 (初代)に見出され、再入門する。
明治15年(1882年)6月場所新入幕。
明治17年(1884年)3月の天覧相撲では明治天皇の希望により横綱梅ヶ谷藤太郎 (初代)との割が組まれ、土俵中央で四つに組んで30分以上をしのぎあう大相撲の末、引分 (相撲)。
天皇をおおいに喜ばせるとともに、この時代の東京相撲を代表する名勝負に名を残した。
続く5月の本場所では新小結。
明治14年(1881年)1月場所で58連勝が止まって以来再び35連勝を続けていた梅ヶ谷を破り、8勝0敗1分1休と現在でいう幕内優勝に相当する星をあげる。
西の大関楯山久三郎がこの場所を最後に現役を退いたこともあって、当然大関昇進と当人も周囲も信じた。
しかし、翌場所では関脇で5勝だった西ノ海嘉治郎 (初代)が大関に、大達は三役格張出の位置に留め置かれた。
この処遇に不満で、「いずれきっと上がれるのだから、今回は我慢しろ」となだめる師匠高砂と口論となり、激昂して手をあげてしまう。
怒った高砂からは破門を宣告され、以降伊勢ノ海(柏戸宗五郎 (5代))のもとに身を寄せることになった。
のちに正式に移籍する。
明治19年(1886年)1月場所新大関。
当然横綱も期待され三つ揃いの廻し化粧廻しも用意されたが、酒量が過ぎたことから胃腸を患い、明治21年(1888年)1月場所から3場所全休、前頭に陥落する。
以降は勝ち越しも1度だけと苦難の土俵が続く。
明治28年(1895年)6月場所を最後に現役を引退。
年寄千賀ノ浦として弟子の育成に尽力したが、大きな成果は残せずに50歳で没。
人情家で下のものの面倒見は良かった反面、小事に拘泥しない性格は周囲との関係をこじれさせることも多く、理解者に恵まれない土俵人生だったと評される。
取り口など
筋肉質な体躯で戯れにその腕を数人の好角家に噛ませてみたが、まったく歯がたたなかったという逸話が残る。
生まれ持った怪力を活かした突き押し中心の相撲で、また徳利投げの荒業もあった。
一方その立合いは、中腰で拳を相手の鼻先に突き出すもので、傍若無人の批判もあり、相手力士からも嫌がられた。
ある場所では、これを嫌った相手力士がとうとう暴発、大達の髷をつかんで土俵上に引き倒す騒動も起こっている(星取では両者休場の扱い)。
成績
幕内通算26場所 87勝40敗21分3預109休 勝率.685