安倍有世 (ABE no Ariyo)
安倍 有世(あべ の ありよ、嘉暦2年(1327年)-応永12年1月29日 (旧暦)(1405年2月28日))は、南北朝時代 (日本)から室町時代初期にかけて活躍した陰陽師・公卿。
父は安倍泰吉、息子に安倍泰嗣(後の安倍有盛)がいる。
安倍晴明の14代目の子孫にあたる。
陰陽師では初めて公卿の地位について後の土御門家の基礎を築いた。
「土御門有世」と書かれた書物もあるが、土御門家が実際に誕生したのは室町時代後期と言われており、有世を「土御門」と呼称する事は誤りである。
経歴
安倍晴明以来、陰陽道で知られた安倍氏 (貴族)も南北朝時代にはいくつかの家系に分裂して、いずれもが安倍氏の嫡流を名乗って「宗家」争いを続けていた。
18歳で大炊寮となった有世は、早くから家業である陰陽道においてその才能を花開かせた。
28歳の時、後光厳天皇の大嘗祭において、安倍一族の祖である古代阿倍氏から伝わる由緒ある吉志舞の奉行に命じられたのである。
大嘗祭の吉志舞の奉行は古くから阿倍氏(安倍氏)の氏上・氏長者のみに許された職務である。
有世の陰陽師としての実力は既に安倍氏を代表する水準にまで達していたのである。
ところが、当時対立する安倍氏の諸流からはこの決定に対して猛抗議が殺到した事が洞院公賢の日記『園太暦』にも記載されている。
こうした一族間の激しい確執の中で、その翌年にはわずか29歳で陰陽師を率いる陰陽寮に抜擢を受けたものの、わずか3年で退任に追い込まれるのである。
その後、有世は左京大夫に昇進して公務を行いつつ、己の技量を磨き続けた。
そんな有世が52歳(1378年)のときに一つの運命的な出会いを果たす。
室町幕府第3代征夷大将軍足利義満の為に祈祷を行ったところ、効果があったということで義満の個人的な信頼を得たのである。
以後、義満は祈祷や占い事は必ず有世に依頼するようになり、有世も義満の依頼を天皇や摂関家の依頼よりも優先するほどの奉仕を行った。
室町時代に入っても公家社会は陰陽師による祈祷や占いの効用を深く信じていた。
特に当時一流の陰陽師である有世の権威は相当なものがあった。
義満にとって、有世の重用は公家社会に対する一種の精神的な「圧力」となりえたのである。
一方、有世としても陰陽師は華やかな公家社会から見れば、その必要性にも関らず一種の「裏仕事」のような低い扱いを受けていた。
だが、そうした公家社会の慣習に囚われない実力者・義満についていく方が自身と一族の将来のためにも有望であると考えたのである。
その効果はたちまち現れる。
有世と義満の出会いからわずか1年後、有世は昇殿を許された。
そして、1384年、58歳の有世は従三位となり公卿となったのである。
これは安倍氏では500年ぶりの出来事であり、これにより他の者が安倍氏の氏長者を名乗る事は不可能となってしまい、長年の宗家争いは有世の圧勝に終わった。
その間も有世の義満側近としての仕事は続いた。
1391年、都で地震が起こると、有世は義満にこの地震は「兵乱の兆し」であると告げた。
そこで義満が密かに兵備を強化していると、間もなく明徳の乱の発生の知らせが入ったという。
1394年以後、義満は室町御所や鹿苑寺でこれまでは天皇が行うものとされた「五壇法」などの国家行事的な祈祷を有世に命じて専任して行わせるようになり、それは有世の死まで続いた。
そして、1399年に有世が義満のために占ったところ、再び兵乱の兆しがあるということで備えたところ、応永の乱の知らせが入ってきたという。
有世の予知については、現代では俄かに信じがたいところである。
だが、義満がこれを政治的に利用して反対勢力を討伐していった事は事実である。
かくして、従二位非参議刑部省という陰陽師としてはかつてない高位に上り詰めた有世は、その死後も「ありよ(ありよう)」と言う言葉が当時の陰陽師を表わす俗語として用いられるほどに人々にその名を知られるようになる。
以後、有世の子孫である土御門家が明治に至るまで日本の陰陽道のみならず天文・暦の世界を支配していく事になるのである。