安斗智徳 (ATO no Chitoko)

安斗 智徳(あとの ちとこ、生没年不明)は、日本の飛鳥時代の人物である。
氏は阿刀とも書く。
旧仮名遣いでの読みは同じ。
姓(カバネ)は連、後に宿禰。
672年の壬申の乱のとき大海人皇子(天武天皇)に従い、戦後「安斗智徳日記」を記した。

阿刀氏(安斗氏)は物部氏の系列の氏族である。

壬申の年の6月24日、吉野宮に隠棲していた大海人皇子は、近江の朝廷に対する戦いを決意し、兵を集めさせた東国に向かって出発した。
このとき従う者は妻子と舎人二十数人、女官十数人であった。
安斗連智徳はその舎人の中にいたが、その後の乱の中で果たした役割については記録がない。

戦後、『安斗智徳日記』を書き、そのごく一部が『釈日本紀』に引用された。
ここでいう日記は今でいう回想録にあたると考えられている。
智徳ら参加者が書いた記録が、『日本書紀』が壬申の乱を執筆するときの材料になったと考える歴史学者が多い。

天武天皇13年(684年)12月2日、阿刀連など50氏が宿禰の姓を与えられた。

和銅元年(708年)1月11日に、正六位上の阿刀宿祢智徳は従五位下になった。
これより他に智徳について知られることはない。

[English Translation]