安達盛宗 (ADACHI Morimune)
安達 盛宗(あだち もりむね、生年未詳 - 弘安8年(1285年)12月)は鎌倉時代後期の鎌倉幕府の御家人。
安達氏の一族で、安達泰盛の子。
母は不明。
兄弟に安達宗景。
越前国国司。
『尊卑分脈』で宗景の右側に記されている事から、嫡子の宗景より年長だった可能性もあるが、竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』には「城次郎」と記されている。
建治3年(1277年)6月19日、検非違使に任官されて武家の正装白襖で出仕した。
文永の役の後、再度の元 (王朝)襲来に備えて建治2年(1276年)に父泰盛が守護となった肥後国の守護代として盛宗が九州に下向した。
弘安4年(1281年)6月の弘安の役で現地の武士達の指揮官を務め、弘安8年(1285年)正月に泰盛による弘安改革で戦後処理のために設置された「鎮西特殊合議訴訟機関」(鎮西探題の前身)での実務にあたった。
同年11月17日、泰盛と内管領平頼綱の対立による霜月騒動で安達一族が滅ぼされると、北九州にいた盛宗は少弐景資と共に岩門城に籠もり、頼綱方である景資の兄少弐経資の軍勢と戦って敗死した(岩門合戦)。
蒙古襲来絵詞には、季長の軍功報告を受ける盛宗の姿が描かれている。