寂源 (Jakugen)

寂源(じゃくげん、?-治安 (日本)4年3月2日 (旧暦)(1024年4月12日))は、平安時代中期の天台宗の僧侶。
俗名は源 時叙(みなもと の ときのぶ)。
左大臣源雅信の8男、母は藤原穆子。
源倫子(藤原道長正室)は同母姉。
生年は不詳であるが、兄弟の年齢や後述の藤原斉信のエピソードから安和元年(968年)もしくは同2年(969年)と推定される。

永観2年(984年)に当時侍従であった時叙が同僚の藤原斉信、蔵人の藤原宣孝とともに賀茂臨時祭への出席をさぼって花山天皇の激怒を買い、年長の宣孝は処分されたものの、時叙と斉信は「年歯太若」であることを理由に両親の前で誡められたことが藤原実資の『小右記』に記されている。
藤原斉信が当時17歳であること、源雅信の子息の初任官がいずれも16歳(大学寮に入って文章生を経た源扶義を除く)であったことから、この頃16・17歳と考えられている。
同じく『小右記』には翌寛和元年6月22日 (旧暦)に時叙が昇殿を許されたことが記されている。
その後、右近衛少将に任じられた(『尊卑分脈』)が、天延元年(987年)頃、同年に出家した兄の源時通の後を追うかのように出家した(三善為康の『拾遺往生伝』には天元 (日本)年間に19歳で出家と記すが、年齢はともかく年代は誤りである)。
動機は不明であるが、当時摂政藤原兼家を牽制しうる政治力を有した左大臣源雅信の子である時叙に将来性に問題があるとは考えにくく、『拾遺往生伝』・『元亨釈書』などが記す厭世観によるものとする可能性がある。
『栄花物語』には相次ぐ息子の出家に憤る雅信の姿が描かれている(『栄花物語』の著者と言われている赤染衛門は寂源と交流があったことが知られている)。

出家後は比叡山に登って覚忍に師事して永祚 (日本)2年6月27日 (旧暦)(990年)に覚忍から両部灌頂を受け、後に皇慶の年長の弟子となって寛弘9年(1012年)3月に胎蔵界・金剛界の灌頂を受けた。
長和2年(1013年)に延暦寺と園城寺の対立を避ける形で大原 (京都市)に移り住み、勝林院を再興した。
寂源は大原で浄土信仰・法華信仰の研鑽に励んで様々な苦行を行い、その度に毘沙門天が現れて寂源を守護したと伝えられている(『古今著聞集』・『元亨釈書』)。
また、義兄である藤原道長が度々寂源を尋ねて講説を受ほか、赤染衛門ら多くの人々から崇敬を受けて出家前の官名より「大原近衛少将」とも称された。
臨終においては磬を打って合殺し、十念成就の後に往生を遂げた(『拾遺往生伝』)と伝えられている。

[English Translation]