富田親家 (TOMIDA Chikaie)
富田 親家(とみだ ちかいえ、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の武蔵国児玉党の武士(現在の埼玉県本庄市出身)。
児玉党系富田氏の祖。
通称は三郎。
富田氏館(武州)初代館主。
児玉党系富田氏の祖
児玉党の本宗家3代目である児玉家行の三男として生まれ、父家行より児玉郡大寄郷若泉庄の富田(現在の本庄市大字富田)の領地を与えられ、西富田堀の内に移住。
児玉三郎親家から富田三郎親家を称して富田氏の祖となった。
『吾妻鑑』には、富田近家の名で記載されている。
兄は2人おり、児玉党本宗家4代目である庄家弘と塩谷家遠がいる(その為、庄氏と児玉党系塩谷氏は同族である)。
子息に富田近重等がいる。
坂東の大力武士
怪力を誇った武士として坂東にその名を知られており、そのおかげで助かった経歴をもつ。
建保元年(1213年)、和田義盛が北条氏打倒の為、挙兵した際(和田合戦)、親家は和田氏軍に味方して出陣し、幕府軍に捕らえられた(将軍家に親家の力芸を観させる為、そのまま相模国鎌倉に送られた)。
鼎(かなえ)を持ち上げ、石をも砕くと言う親家の怪力話を聞いた三代将軍源実朝が親家を呼び、その怪力を試すべく、大鹿の角を差し出し、これを折る様に指示した。
親家はこれを2本同時に折って見せ、実朝と列座していた一同を関心させ、その罪を許されて、紀伊国の領地を与えられた。
親家はこれに深い恩義を感じ、それ以後、忠臣として活動し続け、その子孫も忠義を尽くしたと『吾妻鑑』に載る(承久の乱で子息達の活躍と討死に等が記されている)。
その他
親家がへし折ったとされる奥州産の大鹿の角は、長さが3尺(約90cm)、方7寸(約20cm)にもなり、これをへし折った。
鹿の角は骨から成るからこれをへし折った親家の腕力に将軍家が感心するのも当然と言える。
和田合戦時、児玉党系塩谷氏の一族も討死にしている。
この事からも、この合戦で児玉党の武士が多く戦死している事が分かる。
良くも悪くも実力主義の武家社会が親家の命を救ったと言える。
大力と言う理由だけで助命されたうえ、敵兵でありながら領地まで与えられた(何度も記すが、親家が見せたのは、武芸ではなく、力芸である)。
この和田合戦では、和田氏を初め、横山党など、一族が滅ぶほどの被害を受けた武士団もあり、その中でも異彩を放つ逸話となっている。