小槻広房 (OZUKI no Hirofusa)
小槻 広房(おづき の ひろふさ、? - 建仁2年6月15日 (旧暦)(1202年7月6日))は、平安時代末期の官人。
左大史小槻永業の子。
子に算博士小槻公尚がいる。
永業の系統である大宮家 (小槻氏)の実質上の始祖とされている。
父の没後の仁安 (日本)元年(1166年)に右大史となり、父の実弟である左大史(官務)小槻隆職と相並ぶ。
嘉応元年(1169年)には算博士の地位にあり、父生前の春日大社行幸の行事賞を代わりに受けて従五位上に叙せられた。
治承2年(1178年)には正五位下に進み、主税権助・日向国国司を歴任する。
文治元年(1185年)、源義経による兄・源頼朝追討宣旨を巡って頼朝から糾弾された隆職が高階泰経らとともに失脚すると、広房が左大史となる。
広房は九条兼実政権下にて活躍して隆職とともに記録所寄人となるが、建久2年(1191年)に後白河院の巻き返しによって隆職が復任すると、河内国守に遷された。
2年後、隆職が危篤となると、その後任の左大史を巡って隆職の子小槻国宗と争って敗れた。
以後、国宗が死去するまでの22年間その地位を占めることとなり、国宗の死によって広房の孫の小槻季継(公尚の子)が左大史に任じられるまで広房の系統に左大史の地位が戻ることは無かった。
その後、記録所勾当・玄蕃頭に任ぜられたが、建仁2年(1202年)に出家して房蓮と号し、程なく没したと言われている。