小田孝朝 (ODA Takatomo)
小田 孝朝(おだ たかとも、延元2年/建武 (日本)4年(1337年) - 応永21年6月16日 (旧暦)(1414年7月3日)は、南北朝時代 (日本)から室町時代前期にかけての武将。
小田氏の第9代当主。
第8代当主・小田治久の子。
太郎。
讃岐入道。
小山義政の乱が起こったとき、その鎮定に先鋒として功を挙げた。
ところがそれに対して鎌倉公方・足利氏満の恩賞が不当に少なかったため、孝朝は不満を抱き、1387年の小山若犬丸の反乱に乗じて氏満に反乱を起こした。
このため、氏満の命を受けた上杉朝宗らの討伐軍による攻撃を受け、翌年に降伏を余儀なくされた。
戦後、氏満は孝朝の一命は助命し、所領の一部没収だけの処罰にとどめている。
その後は特に政界で目立った行動は起こさず、もともと豊かな教養人であったため、和歌や書に没頭した。
また、剣術にも大いなる興味を持ち、三河国の中篠頼平から剣術を学び、小田流剣法を創始した。
1414年6月16日に死去した。
享年78。
法号は宝昌院覚山。
墓所は茨城県かすみがうら市(旧・新治郡霞ヶ浦町)の宝昌寺。
長子である小田治朝に先立たれていたため、嫡孫の小田持家が跡を継いだ。