小西行長 (KONISHI Yukinaga)
小西 行長(こにし ゆきなが)は安土桃山時代の大名。
キリシタン大名として知られた。
洗礼名はアウグスティヌス。
朝鮮出兵のとき、加藤清正と先陣を争ったことでも有名である。
関ヶ原の戦いで西軍の将として奮戦したが敗北。
キリシタンのために切腹を拒否して斬首された。
秀吉に仕えるまで
弘治元年(1555年)、堺市の薬を主に扱う商人である小西隆佐の次男として京都で生まれた。
父の影響を受けて早くにキリシタンになった。
はじめ宇喜多直家の家臣として仕え、主に外交担当の使者を務めていたと言われている。
直家が羽柴秀吉(豊臣秀吉)を通じて織田信長に降伏できたのも、行長が秀吉と交渉したからであるとも言われている。
ただし、秀吉に仕えるまでの動向は良くわかっていない。
生家跡と伝えられる場所は堺市が繁栄していた時代の主要道路大小路通りにあり、現在は石碑を残すのみとなっている。
また、生年に関しても永禄2年(1559年)説もあり、疑問が残るところもある。
羽柴(豊臣)家臣時代
天正9年(1581年)に直家が死去すると、羽柴秀吉の家臣として仕えた。
禄は千石という。
豊臣政権内では舟奉行に任命され、水軍を率いていた。
しかし水軍を率いて参戦した天正13年(1585年)の紀伊雑賀攻めでは、雑賀衆の抵抗を受けて敗退したと言われている。
だが、太田城の水攻めでは、行長の水軍が安宅船や大砲も動員して攻撃。
攻略には至らなかったがこの攻撃により籠城側に抗戦を断念させ、開城のきっかけを作った。
天正15年(1587年)の九州征伐、翌年の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、肥後の南半国宇土郡、益城郡、八代の20万石あまりを与えられた。
肥後では宇土城を新規に築城し、本拠とした。
その宇土城普請のことで天草五人衆と揉め事となった(天正天草合戦)が加藤清正らの協力で平定、天草4万石あまりも所領とする。
行長の宇土城は水城として優れた機能を持っていたという。
このほか秀吉の意を受け、水軍指揮と海外貿易の適地であった八代に麦島城を築城し(八代はルイス・フロイスが『フロイス日本史』で絶賛した土地であった)、重臣の小西行重を城代として配置した。
このほか隈庄城、木山城、愛藤寺城を支城とし、隈庄城に弟の小西主殿介、愛籐寺城に結城弥平次ら一族重臣を城代に任じている。
しかし、残りの肥後北半国を領した加藤清正と次第に確執を深めることになる(加藤清正との対立)。
文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では先鋒部隊として朝鮮へ進攻する。
そして釜山広域市やソウル特別市の攻略や、平壌の防衛に功を挙げた。
その後、朝鮮での戦況が不利になると、石田三成と共に明との講和交渉に携わる。
明側の講和担当者・沈惟敬らと共謀し、秀吉には明が降伏すると偽り、明には秀吉が降伏すると偽って講和を結ぼうとする。
なお、この時日本側の使者として明の都・北京市に向かったのが、行長家臣の内藤如安(明側の史料では小西飛騨)である。
この結果、明の使者が秀吉を日本国王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日する事になった。
冊封の内容はアルタン・ハンの冊封を先例としたもので、かなりの高格での冊封(秀吉の王冊封以外にも行長、大谷吉継ら和平派諸将が大都督、行長家臣が都督指揮に任じられるなど、大盤振る舞いの内容であった)であった。
しかし明の臣下になることには違いがないため、この書を秀吉に報告する段階で行長は適当に書の内容をごまかすよう、書を読み上げる西笑承兌に依頼。
が、承兌は書の内容を正しく秀吉に伝えた。
このため講和は破綻。
この講和交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い死を命じられるが、承兌や前田利家、淀殿らのとりなしにより一命を救われる。
講和交渉における不忠義の埋め合わせとして、慶長2年(1597年)からの慶長の役では加藤清正と共に先鋒を命じられ、再び朝鮮へ進攻することになる。
南原の攻略戦(南原城の戦い)に参加。
全州を占領し全羅道方面を制圧した後、順天倭城に在番。
翌慶長3年(1598年)9月末から10月初めにかけて行われた順天倭城の戦いでは明・朝鮮軍による水陸からの攻撃を撃退した。
しかし清正とは以前より不仲であり、作戦をめぐって対立するなど、後に武断派と対立する一因を成した。
関ヶ原
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、行長は12月に帰国する。
その後は加藤清正らとの路線対立から石田三成ら文治派に与し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田三成に呼応し西軍の将として参戦する。
9月15日の関ヶ原本戦では、東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦する。
しかし小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊が壊滅すると、続いて小早川隊に襲われて小西軍は壊滅し、行長は伊吹山中に逃れた。
行長が自害しなかったのは、自害を禁じるキリシタン信仰の故と言われている。
9月19日、竹中重門の手勢に捕らわれ、10月1日に六条河原において三成に続いて斬首された。
斬首される直前、行長はキリシタン信仰を理由とし、僧の経文を拒否したと言われている。
その後、首は徳川家康によって三条大橋に晒された。
人物
徳川家康は、関ヶ原の戦い前に行長の嫡男と家康の嫡男・松平信康の孫娘との結婚を持ちかけており、行長の有する強大な水軍、戦力を手に入れておきたかったことが窺える。
行長は商人の子であることなどから文治派というイメージがあるが、当時の商人は少なからず武力を抱えていたことを忘れてはならない。
また「戦いは前に出てこそ」という信条を持っていたともされる。
その名は宣教師の手によってヨーロッパにも知られており、ローマ教皇もその死を惜しんだという逸話がある(真偽は不明)。
加藤清正との対立
領地が互いに隣接していたため、常に境界線をめぐって争ったといわれている。
清正が熱心な日蓮宗信者であったのに対し、行長が熱心なキリシタンであったことも対立の一因を成したという。
例えば天正17年(1589年)の天草五人衆の反乱の際、キリシタンの多い天草衆に対して行長はほとんど処分をしなかった。
ところが、それを見た天草五人衆は逆に一揆の攻勢を強くしたため、遂に隣国の清正に加勢を要請せざるを得ない事態に追い込まれた一件がある。
清正からは吏僚派のひとりと見なされて、「薬問屋の小倅」と侮られたという。
その反発として行長は、朝鮮出兵のとき、軍旗として紙の袋に朱の丸をつけたものを使用したという。
ちなみに、紙の袋に朱の丸とは、当時の薬袋である。
朝鮮出兵のとき、行長は清正と先陣を争い釜山広域市浦上陸を果たし、一番乗りの功名を得た。
さらに京城府攻めに関しても、どちらが先に一番乗りするかを争い、一日の差で清正を出し抜いたという。
李氏朝鮮に配下の要時羅を派遣して清正軍の上陸時期を密告し、清正を討ち取るよう働きかけた。
李氏朝鮮は李舜臣に攻撃を命じたが、李は罠だと思い攻撃を躊躇ったために陰謀は失敗した(柳成龍『懲毖録』)。
家族・子孫
祖父:小西行正
父:小西隆佐
母:小西ワクサ - 熱心なキリシタンで洗礼名はマグダレーナ。
秀吉の正室北政所に仕えたといわれるが不詳。
正室:菊姫 - 夫と同様に熱心なキリシタンで霊名はジュスタ。
(宇喜多家資料より)
子
小西兵庫頭 - 行長の嫡男。
関ヶ原の戦いの頃12才であった。
戦後毛利輝元に預けられ、輝元の独断で処刑されている。
小西秀貞 - 幼名は與助。
行長の側室の子だという。
浅山弥左衛門 - 行長の末子。
娘:宗義智正室 - 霊名マリア。
関ヶ原の合戦後直ちに離縁された。
養女:ジュリアおたあ
ジュリアは霊名、おたあは日本名。
文禄の役の際に連れて帰った朝鮮人女子。
孫:マンショ小西- 小西マリアの子。
兄
小西如清- 堺代官。
霊名ペント。
小西主殿介
弟
小西行景 - 宇土城代、知行五千石。
小西与七郎 霊名ルイス。
知行二千石。
一門
小西アントニオ - 一門衆、行長の従兄弟。
家臣
家老
小西美作
- 小西三家老の一人、木戸作右衛門。
知行二千石。
別名に小西末郷。
洗礼名ディエゴ、もしくはヤコブ。
ヤコボ・サクイマンとしてイエズス会の文書に名が見える。
当初古麓城代だったが、のち秀吉の意を受けた行長の命令により麦島城を築き城代となる。
関ヶ原の戦いにおいて麦島城を守備。
敗北後開城して薩摩に逃れた。
荒塚中右衛門
- 小西三家老の一人と推測される。
内藤忠俊
- 小西行長の重臣。
霊名はジョアン(如安)