小野篁 (ONO no Takamura)
小野 篁(おの の たかむら、延暦21年(802年) - 仁寿2年12月22日 (旧暦)(853年2月3日))は、平安時代前期の官人、学者、歌人。
異名は「野相公」、その反骨精神から「野狂」とも。
経歴
小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守。
孫に三蹟の一人小野道風がいる。
若年の頃、父に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたが、嵯峨天皇の言葉に触れて発奮し大学寮へ入り、官途についた。
弾正台などを歴任し、法理に明るく『令義解』の編纂にも深く関与している。
承和 (日本)元年(834年)、遣唐使に任ぜられるが、承和5年(838年)に正使藤原常嗣とのいさかいから、病気と称して職務を拒否したうえ朝廷を批判する詩を作したため、嵯峨上皇の怒りをかい隠岐に流された。
1年半の後に許されて帰京。
のち従三位参議に至った。
逸話と伝説
『日本文徳天皇実録』に見える薨伝によれば、篁の身長は六尺二寸。
すなわち180センチを超える巨漢であった。
同じく薨伝によれば、その文才は「天下無双」であったという。
同じく、金銭に淡白で禄を友人に分け与えていたため貧しかったという。
篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔のもとで裁判の補佐をしていたという。
この井戸は、京都東山の六道珍皇寺にある。
また珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。
京都市北区にある篁のものと伝えられる墓の隣には、紫式部のものと言われる墓があるが、これは愛欲を描いた咎で地獄に落とされた式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくものである。
『今昔物語集』によると、病死して閻魔庁に引据えられたた藤原良相が篁の執成しによって蘇生したという逸話が見える。
『宇治拾遺物語』などには、嵯峨天皇のころ、「無悪善」という落書きを「悪(さが(嵯峨のこと))無くば、善けん」(「悪なからば善からん」とも読める。いずれにせよ、「嵯峨天皇がいなければ良いのに」の意。)と読んだ。
それに立腹した嵯峨天皇の出した「『子』を十二個書いたものを読め」というなぞなぞを、見事に「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解いてみせ事なきを得た、という逸話も見える。
まだ日本に『白氏文集』が一冊しか渡来していない頃、天皇が戯れに白楽天の詩の一文字を変えて篁に示したところ、篁は改変したその一文字のみを添削して返したという。
白楽天は、篁が遣唐使に任ぜられたと聞き、彼に会うのを楽しみしていたという。
また篁を主人公とした物語として、異母妹との悲恋を描いた『篁物語』があるが、完全なフィクションである。
子孫
小野道風や小野小町が著名だが、武蔵七党の猪俣党や横山党などの武士は小野篁の子孫を称して、小野にちなんで、「野太郎」、「小野太」などと称している。
また、それからの転化で「弥太郎」や「小弥太」と称した者もいる。
代表歌
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟(百人一首11番)
泣く涙 雨と降らなむ わたり川 水まさりなば かへりくるがに(古今和歌集)